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川上 忠兄(かわかみ ただえ〔名前の読み方には諸説あるが、本稿では島津氏第32代当主・島津修久著「島津義弘の軍功記(増補改訂版)」に記されている読みを用いる。〕、永禄4年(1561年) - 元和8年3月23日(1622年5月3日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。川上氏庶流。川上忠智の次男。子は川上久恒、川上五郎兵衛。通称は、四郎兵衛、久三、大炊助。入道名は青糠(精糠、春糠とも)。 == 生涯 == 永禄4年(1561年)、島津氏の家臣・ 川上忠智の次男として誕生。 当初は、吉松(現鹿児島県姶良郡湧水町)の天台宗内小野寺住持である愛甲相模坊光久の養子となっていたが、島津義弘の命により還俗した。天正4年(1576年)8月28日、伊東氏の高原城を落とした戦勝祝賀が小林城で行われた数日後に、16歳にして小林の地頭職に抜擢される。およそ2年間務め上げた後は島津義弘の居城・飯野城へ帰還したようである。 天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐が行われた際は、豊臣秀長軍を迎撃すべく小林城に入っている。文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役に従軍、弟の久智と共に戦功をあげた。慶長4年(1599年)の庄内の乱の際は疱瘡を患っていたために出陣できなかったが、鎌田政近の依頼により相談役となる。その際、安永城に籠る白石永仙が小勢で打って出たときに、その退き様から伏兵があることを見抜いて政近にこれを追わぬよう進言した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいても従軍し、奮戦して「小返しの五本鑓」の一人に数えられた。また、敵中突破して逃げる際に忠兄の被官である柏木源藤は、井伊直政を銃撃し落馬させている。その後は義弘の命で、薩摩国へ帰還する島津勢と別れて徳川家康の元へ使者として赴き、島津が西軍に味方した経緯を堂々と話した。その際に、自分の甲冑を残して退去したため、徳川氏の家臣は「慌てる余りに甲冑を忘れていった」と罵り笑ったが、家康はこれを制して「戦陣騒忙危難の間情偽弁じ難く、果たして使命を全うしたか否か疑われぬよう、証拠として甲冑を残したのだ。天晴れ軍事に練達の者である」と述べたという。任務を果たした後は、島津勢の一行には遅れたため近衛家を頼って薩摩国に帰還する。忠兄はこの後に義弘の家老に昇進する。 元和8年(1622年)、姶良町帖佐の別荘にて病死。法名は浄翁元清居士。墓は帖佐竜ヶ水の心岳寺にある。 なお、嫡子の久恒はキリシタンであったため火罪に処されたが、忠兄の功績を考慮し次男の五郎兵衛への家督相続が許され、忠兄流川上家は断絶を免れている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川上忠兄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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