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川勝 秀氏(かわかつ ひでうじ)は、安土桃山時代の武将、後に江戸時代前期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の初代当主。 == 生涯 == 弘治元年(1555年)〔生年は『寛永諸家系図伝』によった。『寛政重修諸家譜』によれば、生年は天正3年(1575年)となる。〕、川勝継氏の嫡男として、丹波の北桑田郡美山町(現南丹市)静原の島城に生まれた。天正5年(1577年)、織田信長に従って紀州征伐に参陣した。その後、豊臣秀吉の馬廻を務めて、天正10年(1582年)9月9日、丹波国何鹿郡内に3,535石を秀吉より与えられた。父継氏の家督を継ぎ、丹波内1万石余を領していたとされる。文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、肥前名護屋城に在陣した。この頃、従六位上、主水正に叙任した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、小野木重次に率いられた丹波・但馬の諸大名とともに西軍に与して、細川幽斎が拠る丹後田辺城攻撃(田辺城の戦い)に参加した。この戦いで、幽斎が承継した古今伝授を残そうとした後陽成天皇の勅使によって、幽斎が救われた話は有名である。その後、徳川家康から赦免を受けて小野木重次が拠る福知山城を攻撃し、改易を免れることができた〔 西軍のほとんどが所領没収となった中、細川幽斎が拠る田辺城攻撃に参加した多くが所領安堵となっている(関ヶ原の戦いの戦後処理)。ちなみに、秀氏は丹波国何鹿郡内から丹波国氷上郡・船井郡内に、広綱は丹波国多紀郡・船井郡内から丹波国船井郡内にそれぞれ転封となった。秀氏の減封の多寡に関しては不詳。〕。戦後、丹波国何鹿郡内から丹波国氷上郡・船井郡内に転封となり、家康の命を受け丹波黒井城の最後の城主を務めた。 慶長6年(1601年)、室町期以来の丹波の旧族、細川三斎の推挙により召し出されて、秀氏は旗本家を興した。家紋は桐に鳳凰、釘抜、五三桐。通し字は「広」。慶長11年(1606年)駿府城造営の奉行し、同年3月25日、勤めの褒賞として御書を給わった。慶長12年(1607年)5月26日、53歳で没した。家督は嫡男の広綱が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川勝秀氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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