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川原 俊夫(かわはら としお、1913年1月25日-1980年7月17日)は、日本の実業家。ふくやの創業者で、いわゆる博多式の辛子明太子を開発し、広めた人物として知られる。 == 生涯 == === 出生から引き揚げまで === 川原俊夫は1913年(大正2年)に川原宇次郎(正確には「𡧃次郎」)とトヨの二男として釜山市の寶水町で誕生した〔川原(2013):26ページ〕。元々福岡県朝倉郡三輪村(現在の筑前町)出身の川原家は、明治後期に釜山に渡って「川原回漕店」という商店を開き、海運業を行うかたわら現地の日本人向けに海産物や缶詰などの販売を行っていた〔川原(2013):26-27ページ〕。この頃から川原は街中の草梁市場によく通っており、そこで売られていた明太子に興味を持ったという〔川原(2013):28ページ〕。川原家は後に「富久屋」(ふくや)という食料品店も経営しており、この店の名前がのちの「ふくや」に繋がる事となる〔川原(2013):33ページ〕。 その後、釜山公立中学校を卒業した川原は1930年(昭和5年)に満州の電力会社「南満州電気株式会社」に入社し、奉天へ移住する〔川原(2013):30ページ〕。1936年(昭和11年)には田中千鶴子と結婚する。田中家は「釜山物産組」という海運会社を営んでおり、同じ福岡県の糸島郡出身であったことから両家は仲良しであった。千鶴子は100メートル走で朝鮮全土の女子最速記録を樹立し、アムステルダムオリンピックメダリストの人見絹枝より日本体育大学への推薦を打診された事もあった人物であった〔川原(2013):31ページ〕。 1942年(昭和17年)には新京の本社に転勤し、「防衛課」の職員として発電所の避難計画の策定といった業務に携わる〔川原(2013):32ページ〕。1944年(昭和19年)に召集されて独立混成第五九旅団隷下の独立歩兵第三九四大隊の一員として伊良部島に配属される。その後独立混成第五九旅団司令部に転属。宮古島で終戦を迎える〔川原(2013):35-36ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川原俊夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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