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川原 慶賀(かわはら けいが、天明6年(1786年〔「永島キク刀自絵像」(長崎歴史文化博物館蔵、長崎県指定有形文化財)の落款と賛文に、慶賀75歳の作であることと、中島広足が万延元年(1860年)に着賛したことが記されていることから逆算。〕) - 万延元年(1860年)以降)は江戸時代後期の長崎の画家である。出島出入絵師として風俗画、肖像画に加え生物の詳細な写生図を描いた。諱(字とも)は種美、通称は登与助(とよすけ)。慶賀は号である。別号に聴月楼主人。後に田口姓を名乗る。息子の川原盧谷も父に学び、洋風画を描いた。 == 経歴 == 長崎の今下町(いましたまち、現・長崎市築町)に生まれる。父・川原香山も町絵師であった。 当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。出島オランダ商館への出入りを許され長崎の風俗画や風景画、出島での商館員達の生活等を描いた。 文政6年(1823年)にシーボルトが商館付医師として来日した。慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描いた。また、文政9年(1826年)のオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描いた。これらに使用された紙、顔料、支払われた給与などはオランダ政府から支給され絵図のほとんどはオランダへ発送された。 文政11年(1828年)のシーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責された。シーボルト追放後、シーボルトを慕う人々によって嗅ぎ煙草入れがシーボルトの元へ送られた。この嗅ぎ煙草入れの蓋には、慶賀が下絵を描いた楠本滝と楠本イネの肖像画が表裏に螺鈿細工で表されている(「シーボルト妻子像 螺鈿合子」)。その後もシーボルトの後任となったハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画を描いた。 天保13年(1842年)、オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受けた。 長崎を追放された慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かった。脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始めた。 その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(とうらんかんず。出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川原慶賀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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