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川又 米利(かわまた よねとし、1960年8月4日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 2012年より2年間中日ドラゴンズの二軍打撃コーチを務めた。また、名古屋に本社を置く芸能事務所セントラルジャパンに所属している。 == 経歴 == 早稲田実業学校では左翼手、一塁手として通算4回甲子園大会に出場。2年生時の1977年春の選抜では準々決勝に進むが、智弁学園の山口哲治投手に抑えられ敗退〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。同年夏の選手権も準々決勝で今治西高に大敗〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。翌1978年春の選抜は2回戦で、この大会に優勝した浜松商に惜敗〔。しかし大会第4号の本塁打を放ち長距離打者として注目される。同年夏の選手権は1回戦で矢田万寿男のいた倉吉北高に敗退〔。左の強打者ということから、先輩の王貞治になぞらえ「王二世」と騒がれた。1979年にドラフト外で中日ドラゴンズに入団。 なかなか一軍に定着できなかったが、1985年には右翼手の定位置を獲得、初めて規定打席(21位、打率.290)に達する。シーズン中盤には谷沢健一の故障で一塁手としても出場した。翌1986年は谷沢に代り一塁手に回り、その後も1989年まで右翼手、一塁手のレギュラーとして活躍。1988年のリーグ優勝に貢献し、西武との日本シリーズは敗退するが、10打数3安打2打点1本塁打を記録。しかし落合博満が一塁手に定着し、外人選手の入団もあって、その後は段々と出場機会を減らし、代打の切り札や外野の準レギュラーとして起用される。特に相性の良い巨人戦には勝負強さを発揮した。町田公二郎に次ぐ代打本塁打16本(大島康徳に並ぶ)の記録を持つ。ナゴヤドームが完成した1997年に引退。 1998年から東海ラジオ、日本テレビ、中京テレビ、中日スポーツの野球解説者を務める。山田久志新監督が就任した2002年に中日の二軍打撃コーチに就任。2003年は一軍打撃コーチ、2004年は二軍打撃コーチを務めた。 2005年から再び東海ラジオ(2008年まで)、中京テレビ、中日スポーツの解説者(東海テレビ制作のJ SPORTS STADIUMにも出演)。「間違いないですね」が口癖(東海ラジオのナイターオフ番組『ガッツナイタープラス』の2007年バージョンで、リスナーが考える「間違いないですね」にあった質問を募集し、質問の最後に川又本人の「間違いないですね」の肉声が使用される大喜利的要素を含む内容の不定期企画があった)。マスターズリーグの名古屋80D'sersの選手としても活躍している。 2007年、名古屋市でクラブチーム「NAGOYA23」を結成し、総監督に就任。2012年からは中日の二軍打撃コーチに就任、8年ぶりの現場復帰となった。2013年、10月4日に球団から来季の契約を結ばない事が発表された〔来季の契約について 中日球団公式サイト2013年10月4日配信〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川又米利」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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