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川口 和久(かわぐち かずひさ、1959年7月8日 - )は、鳥取県鳥取市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。 == 来歴・人物 == === アマチュア時代 === 鳥取市の吉岡温泉で旅館と食堂を経営していた家庭の、男ばかり三兄弟の末子として生まれる〔「プロフェッショナルの『原風景』 3回 川口和久 『だれよりも長く野球をやりたい』すべてのはじまりはそこからだった」『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.109〕。兄たちの影響もあって早くから野球を始め、湖南小学校4年生で少年野球チームに入った〔『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.110〕。当初は一塁手だったが6年生で投手になり、湖南中学校では市大会で優勝する原動力となった〔。味方がエラーをしても怒らずに慰めるなど、冷静な投手だったという〔。 速球派投手として注目され県内の各高校野球部から誘いを受けたが、鳥取城北高校に進学〔毎日新聞、2012年2月23日付朝刊、鳥取地方面〕。1年生秋の鳥取県大会で3位に入って明治神宮野球大会に出場し、1回戦で関東代表の作新学院に1対3で敗れた〔。これをきっかけに県外遠征も増え、2年生となったの春季中国大会では黒田真二を擁して同年の選抜大会で優勝した崇徳高校を8回まで1失点に抑える好投を見せ、敗れはしたもののプロのスカウトから注目を集めるようになった〔。同年の夏の県大会では優勝候補と見られていたが四球を連発して2回戦で敗れ、大きなショックを受けて野球に対する考え方が厳しくなったという〔。 3年生になると松本正志や田辺繁文とともに、高校左腕三羽ガラスという高い評価を受けていた〔「核心インタビュー 川口和久 『奪三振』のたまらない誘惑」『現代』、1993年4月号、P.123〕。NPBの10球団から獲得を打診され〔『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.111〕、1977年のドラフト会議でロッテオリオンズから6位指名を受けた。プロ志望だったため入団を周囲から勧められたが「まだ自信がない」として断り〔、高校野球部の監督と同じ鳥取西高のOBが監督と部長を務める社会人野球のデュプロに進んだ〔『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.108〕。なお、ロッテからは契約金3,500万円を提示されていたという〔毎日新聞、1999年1月14日付朝刊、P.26〕。 しかし当時のデュプロは自社のグラウンドがないなど環境は厳しく〔、平日は朝から夕方まで自動車を運転して営業の業務を行ない、野球の練習は夜の2時間半だけだった〔スポニチ日めくりプロ野球10年3月【3月11日】1981年(昭56) 強心臓のドラフト1位川口和久 4イニングで2勝 〕。入社2年目のには初先発の対松下電器戦でバスターの構えから本塁打を打たれて自信をなくし、高校時代に膝を痛めていたのに走り込みを強要されそうになったこともあり、一時は退部を真剣に検討した〔。しかし翌年までプロ入りできないため、もう1年続けることを決めたという〔。地区大会などで好投して注目を集めた〔が、広島入りを希望しているという噂を聞いて視察したスカウトの木庭教から高い評価を受け、「ドラフトで指名するので、注目を避けるため故障という事にして1年間投げないでほしい」と頼まれた〔朝日新聞、1998年2月18日付夕刊、P.3〕。大洋の監督の別当薫が来た時も痛みをアピールし、これによって故障を信じる関係者が増えたという〔。1980年のドラフトで、原辰徳を抽選で外した広島から1位指名を受け、契約金と年俸それぞれ3,300万円、360万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ〔読売新聞、1980年12月8日付朝刊、P.17〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川口和久」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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