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川口 清健(かわぐち きよたけ、1892年(明治25年)12月3日 - 1961年(昭和36年)5月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 ==経歴== 高知県出身。川口清俊陸軍中佐の息子として生まれる。城東中学、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。 当時は陸軍一といわれるほどの「ショーネン」(美少年)であった。 参謀本部付勤務を経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 歩兵第8連隊中隊長、参謀本部付勤務、第4師団参謀、台湾軍参謀、陸軍重砲兵学校教官、陸軍省軍務局課員、陸軍省副官、支那駐屯軍参謀、第4師団司令部付(外事主任)、東京湾要塞参謀、北支那方面軍司令部付(宣伝部長)などを経て、1937年(昭和12年)11月、陸軍大佐に進級。北支那方面軍参謀、中部防衛参謀、中部軍参謀などを歴任。1940年(昭和15年)12月、陸軍少将に昇進し、歩兵第35旅団長となった。 太平洋戦争開戦に備えて1941年(昭和16年)11月、第35旅団は第18師団から離れ川口支隊となった。ガダルカナル島の戦いにおいて一木支隊の全滅をうけ川口支隊が投入されたが、大本営から派遣された作戦参謀辻政信中佐と意見が対立し罷免された。 1942年(昭和17年)11月、東部軍司令部付となり、翌年3月に待命。翌月予備役となるが召集を受け、1945年(昭和20年)3月、対馬要塞司令官となる。同司令部付を経て、同年8月、召集解除となった。1946年2月、BC級戦犯容疑で逮捕され、巣鴨刑務所に収監。1949年(昭和24年)11月、重労働6年の判決を受けたが、1953年(昭和28年)に釈放された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川口清健」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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