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川口 知哉(かわぐち ともや、1979年8月25日 - )は、京都府城陽市出身の元プロ野球選手(投手)・監督。 == 来歴・人物 == 平安高校3年生時の、春の甲子園と夏の甲子園に、エースピッチャー兼4番打者として出場。春はベスト8に進出、夏は決勝で強打者の中谷仁らを擁する智弁和歌山に惜しくも3-6で敗れたが、同校を準優勝へと導いた。 140km/h台の直球と落差の大きいカーブを武器に当時西のドクターKと呼ばれ、甲子園不出場ながら東のドクターKとして有名な選手であった井川慶、能見篤史と並んで高校生左腕三羽ガラスと呼ばれた。全国大会での実績、実力とビッグマウスぶりから注目度はNo.1であった。 同年のドラフト会議ではオリックス、近鉄、ヤクルト、横浜の4球団から1位指名を受け、抽選の結果、希望通りオリックスへ入団した。 しかし、高校野球を席巻した左腕もプロ入り後は故障や制球難に苦しんだ。制球難克服の為に毎年のようにフォーム改造に挑んだものの成果は上がらなかった。10月には一軍初登板を果たしたが、以降は二軍生活が続いた。8月4日のウエスタン・リーグの対広島東洋カープ戦で1試合6暴投のリーグ新記録、8月29日の同リーグの対阪神タイガース戦では1試合15与四球、7連続与四球のリーグ記録を作った。この試合で3暴投を記録し、リーグ新記録のシーズン14暴投となった。とは一軍での登板機会が与えられたが活躍できず、にオリックスを自由契約となった。同年の12球団合同トライアウトを受験するも不合格となり、現役を退いた。 なお本人は、プロ入り後の故障や制球難は、1年目の春に行ったフォーム改造が原因だったとインタビューに答えている。軸足の独特な使い方を当時の投手コーチに指摘され、本人は改造を一度断ったものの認めてもらえなかった。「プロの人が言うのだから」と最終的にフォームを改造するも、身体に合わず、故障や制球難に付きまとわれたプロ生活が始まったという。 引退後は京都府内で住宅の外装関係の職種に就業、その傍ら少年野球などアマチュア野球の指導にも参加している。引退の前年に歯科技工士の女性と結婚、引退直後に生まれた子供が1人いる。 からまで日本女子プロ野球機構の京都アストドリームスのコーチを、からまでサウス・ディオーネ(兵庫スイングスマイリーズから改称)の監督を務めた。からは同リーグ統括ヘッドコーチを務めている〔2015年シーズン新監督・新コーチ就任のお知らせ . 日本女子プロ野球リーグ. (2014年12月24日) 2015年6月4日閲覧。〕。 、兵庫ディオーネのコーチに就任〔2016年チーム体制発表!! . 日本女子プロ野球リーグ. (2015年12月28日) 2016年2月16日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川口知哉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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