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川合小梅(かわい こうめ、1805年1月22日(文化元年12月22日)- 1889年(明治22年)11月2日)は、江戸後期から明治時代の画家。16歳から長期に渡り書き続けた日記が、後に小梅日記として出版された。 == 人物 == 1805年1月22日(文化元年12月22日)に紀州藩校の学習館の助教である川合鼎と、その妻(辰子)の間に生まれる。小梅が5歳の頃に鼎が病死してからは、祖父である川合春川(名は衡(こう)宇は丈平)と辰子に養育された。 春川からは漢学、辰子からは和歌を学んだ。また、絵を画師松亭に学んだ後、野呂介石の門弟である野際白雪に師事する。 1819年(文政2年)に川合家に養子として迎えられた梅本修(紀州藩士梅本五兵衛の子、通称は豹蔵。号は梅所。後に川合梅所は紀州藩校の学習館の督学(学長)となる)と16歳で結婚した。この頃より、日記を書き始める。 1833年(天保4年)には、30歳で息子の岩一郎(靖之、雄輔。後に教師となる)を出産した 。 1889年(明治22年)11月2日没。墓所は和歌山県和歌山市新堀東の妙宣寺 。 86歳で亡くなるまで、70年間に渡り日記を書き残した。小梅は日記のほかにも、花鳥画や人物画などの文人画を多く残している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川合小梅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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