翻訳と辞書
Words near each other
・ 川合田温泉
・ 川合直次
・ 川合神社 (川口町)
・ 川合神社 (長岡市)
・ 川合秀実
・ 川合稔
・ 川合章
・ 川合組
・ 川合義虎
・ 川合考古資料館
川合芳三郎
・ 川合貞一
・ 川合貞吉
・ 川合道雄
・ 川合達夫
・ 川合達彦
・ 川合隆男
・ 川合高岡駅
・ 川名
・ 川名みさき


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

川合芳三郎 : ミニ英和和英辞書
川合芳三郎[かわ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [ごう]
 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) 
: [み]
  1. (num) three 

川合芳三郎 ( リダイレクト:川合玉堂 ) : ウィキペディア日本語版
川合玉堂[かわい ぎょくどう]

川合 玉堂(かわい ぎょくどう、本名:川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)、1873年明治6年)11月24日 - 1957年昭和32年)6月30日)は、日本の明治期から昭和期にかけて活躍した日本画家
==人物==
1873年(明治6年)、愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町)に、筆墨紙商の長男として生まれる。12歳頃より絵に親しみ、京都にてはじめ望月玉泉門下、後に幸野楳嶺門下で円山四条派を学ぶ。「玉堂」と号するのは1890年(明治23年)、17歳のとき。この際「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」は第3回内国勧業博覧会に入選している。
1896年(明治29年)、23歳のとき上京し橋本雅邦に師事する。岡倉覚三(天心)、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院1898年)には当初より参加。1900年(明治33年)頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年(明治40年)には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、また1915年大正4年)からは東京美術学校日本画科教授、1917年(大正6年)6月11日帝室技芸員〔『官報』第1458号、大正6年6月12日。〕に任じられ日本画壇の中心的存在の一人となる。1931年(昭和6年)にフランス政府からレジオンドヌール勲章1933年(昭和8年)にはドイツ政府から赤十字第一等名誉章を贈られ、1940年(昭和15年)には文化勲章を受章した。
第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称した。第二次世界大戦後にも、同地の自然を愛する玉堂はそのまま定住、同地で1957年(昭和32年)没した。没後、勲一等旭日大綬章を賜わる。また、神奈川県横浜市金沢区には1917年(大正6年)頃に建設した別邸「二松庵」があり、横浜市指定の有形文化財として月1回の一般公開もなされていたが〔横浜市 旧川合玉堂別邸 トップページ 〕、2013年平成25年)10月16日に発生した火災により全焼した〔旧川合玉堂別邸が全焼 横浜・金沢区 朝日新聞 2013年10月16日〕。
日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意とした。
玉堂には長野草風池田輝方池田蕉園松本姿水山内多門ら多くの門人がいた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「川合玉堂」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.