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川尻 達也(かわじり たつや、1978年5月8日 - )は、日本の男性総合格闘家。茨城県稲敷郡江戸崎町(現・稲敷市)出身。茨城県立土浦第三高等学校、中央学院大学卒業。元修斗世界ウェルター級王者。 日本人離れした強靭なフィジカルを生かしたテイクダウンと強烈なパウンドを武器としている。フェザー級転向以降はテイクダウンからのパスガード・トップキープを武器とし、サブミッションを極めて勝つ事が多い。特に肩固め(川尻曰く「川ちゃん固め」)を得意としている〔『元気ですか!!大晦日!!2011』さいたまSA大会 出場ファイターの試合後のコメントPART.4 DREAM 2011年12月31日〕。 == 来歴 == 小、中学生時代は野球を経験。高校生時代は陸上の800m走の選手であった〔川尻 達也 UFC公式サイト〕。 中央学院大学時代にPRIDE.1での高田延彦対ヒクソン・グレイシー戦を見たことと、桜井"マッハ"速人や佐藤ルミナに憧れて総合格闘家を志した。 アマチュア時代に三崎和雄にKO負けしたことがある。 2000年4月12日、修斗にてプロデビュー。中山巧にスリーパーホールドで一本負け。デビュー戦で敗れたことで、1年間をかけて徹底的に肉体改造した。 2002年、修斗の新人王トーナメント ウェルター級(-70kg)に出場し、優勝を果たした。 2002年12月14日、修斗でビトー・"シャオリン"・ヒベイロと対戦し、0-3の判定負け。腕関節を極められ耐え抜いたため負傷した。 2003年3月30日、アブダビコンバット77kg未満級日本予選に出場。準決勝で鹿又智成にポイント負け。 2004年12月14日、修斗世界ウェルター級タイトルマッチでビトー・"シャオリン"・ヒベイロと再戦。終始川尻が主導権を握り、パウンドでTKO勝ちを収め王座獲得に成功した。 2005年5月22日、PRIDE初参戦となったPRIDE 武士道 -其の七-でキム・インソクと対戦し、パウンドでTKO勝ち。 2005年9月25日、PRIDE 武士道 -其の九-で行われたライト級(-73kg)トーナメント1回戦で五味隆典と対戦し、激闘の末チョークスリーパーで一本負け。この試合は年間ベストバウトに選ばれるなど、周囲からも高く評価された。また試合後「負けてもリベンジする。それが僕の格闘技人生」、「自分より強い人がいることに驚いた」とコメントした〔[PRIDE武士道] 9.25 有コロ:ライト決勝は五味×マッハ BoutReview 2005年9月25日〕。 2006年2月17日、修斗で世界ウェルター級ランキング1位のヨアキム・ハンセンを相手に初防衛戦を行う。試合開始直後、ハンセンのローブローを受けてしまい、このダメージにより川尻は試合続行不可能となり、反則勝ちで初防衛に成功した。 2006年12月31日、PRIDE 男祭り 2006でギルバート・メレンデスと対戦。激しい打撃の応酬戦を展開したが0-3の判定負け。 大晦日の試合で左手親指を負傷していたが、2007年1月18日の練習で再び同箇所を負傷、左母指中手骨基部骨折で全治2か月と診断された。骨折により期限内の防衛戦が不可能になったことにより修斗世界ウェルター級王座を2007年1月24日付けで返上した〔【修斗】負傷によるベルト返上の川尻達也「王者の義務を果たせず申し訳ない」 格闘技ウェブマガジンGBR 2007年1月23日〕。 2007年12月31日、1年ぶりの復帰戦となったやれんのか! 大晦日! 2007でルイス・アゼレードと対戦し、3-0の判定勝ち。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川尻達也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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