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いすゞバス製造株式会社(いすずバスせいぞう)は、1997年から2004年9月まで存在したいすゞ自動車100%出資のバス車体製造会社(コーチビルダー)。略称は I-BUS, IBM。2004年10月ジェイ・バスが日野車体工業といすゞバス製造の2社の存続会社となり、三社合併した。 いすゞバス製造になる前の1997年以前については、ルーツは川崎重工業グループの航空機製造会社で、第二次世界大戦後の民需転換でバス車体の製造を始めた事による。変遷をおおまかにまとめると、いすゞとの提携時代が川崎産業→川崎岐阜製作所→川崎航空機工業→川崎重工業→川重車体工業(川崎ボデー)までの各務ヶ原工場時代(1947〜1985)と、その後いすゞ50%出資のアイ・ケイ・コーチを経ていすゞバス製造となる宇都宮工場時代(1986〜2004)に分けられる。 == 各務ヶ原工場時代 == (川崎産業→川崎岐阜製作所→川崎航空機工業→川崎重工業→川重車体工業) 第二次世界大戦の敗戦で日本はGHQから一切の航空機関連活動を禁止され〔民間航空禁止命令の公布(1945年11月18日)より前の、同年9月2日の「GHQ指令第一号」(軍需工場終結の指令を内容に含む)と、10月10日の「兵器、航空機等ノ生産制限ニ関スル件」の施行による。〕、航空機専業メーカーであった川崎航空機工業は、市場と顧客と仕事のすべてを一挙に失った。そこで、他の軍需企業もそうであるが、残存の製造設備と資材を活用し民需生産に転換して会社の再建を目指すこととし、同社〔戦前の川崎航空機工業株式会社(1937年11月18日設立)は1946年5月31日、川崎産業株式会社に社名変更。〕の岐阜工場では、家庭用品、農機具、電気器具、自動車部品、紡績機など様々な製品を製造した。そんな中、1948年より同社戦後初の本格的な事業として、航空機の製造技術を生かしたバス車体の製造に乗り出す。 終戦直後ごろまでの日本国内製のバスボディはボディ・オン・フレーム構造で製作されるのが普通であったが、車体重量が重いことが難点であった。これに対して川崎では、航空機で用いられていたモノコック構造を当初から採用した〔同時期より1950年代初頭にかけて、民生産業(現・UDトラックス(旧:日産ディーゼル))など他の大手コーチビルダーも相次いでモノコック構造を採用している。〕。モノコック構造の車体は強度部材の重複がなくなって従来より格段に軽量化され、ひいては車両性能の向上にも寄与した。製造工程には航空機製造用であった設備と技術が用いられ、複雑な形状の外板は大型プレス機で一気に加工成型された。 1966年に日本の路線バスボディではじめて、Hゴム支持のスタンディーウインドウを廃し、フル・アルミサッシの2段窓を導入した。また、一世を風靡した通称「オバQ」やいすゞキュービックなど、その斬新なデザインや技術力があった。モノコックに代わるスケルトンボディの採用は1984年と、業界ではやや遅かった。 戦前六甲号を製造していた川崎車両部は、戦中の九四式六輪自動貨車を縁にヂーゼル自動車工業株式会社(戦後のいすゞ自動車)との関係が深く、1950年より同社と提携を組み指定車体となる。他に地理的にシャーシ工場が近接していた関係から、かつては中京・信越圏のバス事業者向けを中心に三菱自動車工業製やトヨタ自動車製バスにも架装していたことがあるが、1974年以降いすゞ向け以外の製造実績はない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「いすゞバス製造」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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