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川崎 克(かわさき かつ、本名:かわさき こく(漢字は同じ)、1880年(明治13年)12月28日 - 1949年(昭和24年)2月3日)は三重県伊賀上野(現・伊賀市)出身の日本の政治家。長男に経済学博士の川崎勉、次男に元厚生大臣の川崎秀二がいる。元厚生労働大臣の川崎二郎は孫にあたる。 == 来歴・人物 == 生家は油屋である。1898年(明治31年)に、政治家を志して同じ郷土三重県出身の尾崎行雄を頼って上京した。日本法律学校(現在の日本大学)で法律を学び、東京外語学校(現在の東京外国語大学)でフランス語を学んだ。1903年(明治36年)に東京市長であった尾崎の下で東京市の書記を務めた後、日本新聞社記者となり日本の統治下であった朝鮮半島に渡り元山時事新報の記者、元山民団の団長を務める。1915年(大正4年)第12回衆議院議員総選挙で中正会から立候補して初当選をする。以来第21回衆議院議員総選挙まで連続10回当選(第14回衆議院議員総選挙は落選したが繰り上げ当選)。中正会→憲政会→立憲民政党に所属し、陸軍参与官、逓信参与官、司法政務次官、立憲民政党総務・政調会長を歴任した。 尾崎、浜田国松と並ぶ、三重県の大物政治家として、門閥政治、昭和の軍国主義に真っ向から立ち向かい、明治憲法下の議会政治を守ろうとした。尾崎と共に憲政擁護運動、大正デモクラシーによる普通選挙の実現に尽力。1941年(昭和16年)に、翼賛議員同盟に対抗して鳩山一郎らと同交会を結成して、大政翼賛会の予算削減を唱え、翼賛選挙に際しては非推薦で当選する。戦後、不本意ながらもGHQにより公職追放の対象者とされ、子の秀二が後継者となった。1949年(昭和24年)2月3日に、70歳にて没。〔「日本政治史に残る三重県選出国会議員」の89ページの記述。(著者)廣新二。出版年は1985年(昭和60年)三重県選出議員の「川崎克」の項目。〕 郷里の伝統文化の顕彰にも尽力し、伊賀上野城を私財を投じて再建した。1942年(昭和17年)には松尾芭蕉の生誕300年を記念し、同じく私財を投じて俳聖殿を建立した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川崎克」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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