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川崎 卓吉(かわさき たくきち、明治4年1月18日(1871年3月8日) - 昭和11年(1936年)3月27日)は、日本の官僚、政治家。広島県賀茂郡広村(現・呉市広町)生まれ。 == 来歴・人物 == 医師川崎修三の二男として生まれ、広島中学(現・広島県立広島国泰寺高等学校)に入学も4年で中退し、千葉中学に編入。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法科を卒業。自治制度研究のため大学院に進み卒業後内務省入りした。 大正5年(1916年)、福島県知事。大正8年(1919年)、台湾総督府内務局長、さらに殖産局長となる。大正11年(1922年)、名古屋市長。名古屋市長時代の大正13年(1924年)、名古屋八事山本球場で開始された第1回選抜中等学校野球大会(春の選抜高等学校野球大会の前身)の始球式を務めた。 同年の内務省警保局長、兼警察講習所長〔『官報』第3704号、大正13年12月25日。〕、大正14年(1925年)の内務次官を経て、大正15年(1926年)、貴族院勅選議員となり、濱口雄幸、若槻禮次郎の紹介で憲政会に入党。翌・昭和2年(1927年)に憲政会が政友本党と合同して立憲民政党を結成すると川崎も民政党に所属した。 昭和4年(1929年)に濱口内閣の法制局長官、昭和6年(1931年)には第2次若槻内閣の内閣書記官長を歴任。昭和7年(1932年)、民政党総務。政治思想の動揺期にあって議会政治の尊重、ファッショ反対を打ち出し政民連携に奔走した。昭和10年(1935年)、民政党幹事長に就任。 昭和11年(1936年)、岡田内閣の文部大臣として初入閣を果たしたが、直後に二・二六事件が勃発。陸軍は宇垣閥で統制派の寺内寿一を立てて組閣に干渉。続く廣田内閣では内務大臣に予定されていたが、陸軍の横槍で商工大臣に回された。商工相として親任式当日の閣議に出た後に病気で倒れて65歳で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川崎卓吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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