|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 川 : [かわ] 【名詞】 1. river 2. stream ・ 崎 : [みさき] (n) cape (on coast) ・ 型 : [かた] 【名詞】 1. mold 2. mould 3. model 4. style 5. shape 6. data type ・ 油 : [あぶら] 【名詞】 1. oil ・ 油槽 : [ゆそう] (n) oil tank ・ 油槽船 : [ゆそうせん] (n) an oil tanker ・ 槽 : [そう] 【名詞】 1. (1) cistern 2. bath 3. tank 4. chamber 5. (2) bunker (coal) 6. (3) cell (electrical) 7. (4) vessel ・ 船 : [ふね] 【名詞】 1. ship 2. boat 3. watercraft 4. shipping 5. vessel 6. steamship
川崎型油槽船(かわさきがたゆそうせん)とは、1933年(昭和8年)から1943年(昭和18年)の間に川崎造船所および川崎重工業(双方とも、以降「川崎」と略する)で建造されたタンカーの形式であるが、「川崎型油槽船」という呼称は川崎自身がつけたものではない。ウィキペディア英文版では "Kawasaki type oiler" としているが、これも英語における正式な呼称ではない。翻訳家で模型製作者でもある岩重多四郎は「東亜丸クラス」、「川崎型タンカー」と呼称している。本項では、英文版からの翻訳および実際にこの呼称を使用している書籍があることを重んじて〔例えば#松井p.46, pp.139-140 で使われている。また、ウィキペディア英文版では「東亜丸」、「極東丸」を「東亜丸クラス」、「建川丸」以降を「建川丸クラス」とも分類している。〕、正式な呼称ではないものの、「川崎型油槽船」という名称を使用する。 太平洋戦争突入前に整備された1万トン級タンカー船隊において13隻もの一大勢力を誇り、いずれもが高速を誇って日本への石油輸送に任じたが、太平洋戦争のためすべて軍に徴傭された。戦争によって13隻すべてが失われたが、戦後に一隻が再生して改造の上就航した。本項では主に建造までの背景を説明し、船歴については略歴の形で一覧としてまとめている。単独項目として作成されている船に関しては、そちらも参照されたい。また付録として、同時期に建造された他の造船所建造の1万トン級タンカーについても、比較のため説明する。 ==建造までの背景== 「虎丸」(スタンダード石油、531トン)〔建造当時(#松井p.2,4)。〕に始まる日本の動力付きタンカーは、早くも1910年(明治43年)建造の「紀洋丸」(東洋汽船、9,287トン)で1万トンに迫る大きさのものができ上がっていた〔「紀洋丸」は建造中に貨客船に改装されており、大正10年にタンカーに復旧(#松井pp.6-7)〕。1921年(大正10年)建造の「橘丸」(帝国石油、6,539トン)は「典型的近代型油槽船のひな形」とも呼ばれ〔#松井p.9〕、日本海軍でも大正時代末期から艦艇燃料を石炭から石油に切り替える事情があって〔#川崎汽船五十年史p.366〕、知床型給油艦や隠戸型給油艦を整備していた。大正から昭和初期にかけては、主に播磨造船所や横浜船渠、三菱長崎造船所で多くの大型タンカーが建造されるようになるが、性能や要目の面で統一感があったわけではなかった〔#松井pp.10-11, pp.18-19, pp.30-31〕。飯野商事(飯野海運)が日本海軍の優秀タンカー建造政策に応えて1931年(昭和6年)に建造した「富士山丸」(飯野商事、9,527トン)は、初めて2条の縦通隔壁を渡して強度を与え、その他機器類なども新型のものを取りそろえて「当時のタンカーの標準型」と目された〔#飯野60年の歩みpp.430-431〕。その飯野商事は、「富士山丸」と特務艦「野間」の後身である「日本丸」(5,841トン)に続く3隻目の外航タンカーの整備計画を策していた〔#飯野60年の歩みp.433〕。 一方、長い不況に陥っていた日本の海運業界は、1932年(昭和7年)から始まった船舶改善助成施設で一気に活気づくこととなった〔#正岡pp.15-16〕。ところが、この助成政策の対象となって建造される船は当初、貨客船と貨物船であって、タンカーは対象外だったが、そこに割って入ったのが日本海軍だった〔#正岡p.16〕。もともと、船舶改善助成施設で建造される船舶には日本海軍の要求で、甲板までの高さ、船倉口の広さおよび砲を備え付けた際の強度と工事実施の際の経費が盛り込まれており、一朝有事の際には特設艦船に転用できるようになっていたのが船舶改善助成施設で建造される船舶であって、船舶改善助成施設の「裏の目的」〔「表の目的」は、中古船の一掃と造船技術の確保である(#飯野60年の歩みpp.432-433)。〕でもあった〔。さきに述べた日本海軍の優秀タンカー建造政策で建造された「富士山丸」や「帝洋丸」(日東汽船、9,849トン)なども備砲設置位置や速力などの点で海軍側の要求がふんだんに盛り込まれたタンカーではあった〔#正岡p.25〕。しかし、船舶改善助成施設適用のタンカーをこれまで民間向け大型タンカーを建造した実績のある播磨造船所や横浜船渠、三菱長崎造船所ではなく、民間向けタンカーの建造実績がなかった川崎〔#川重社史pp.259-260〕に建造させるにいたった詳しい経緯ははっきりしない。時系列的に二通りの解釈があって、「日本海軍が飯野商事に川崎でタンカーを建造することを要請した」と〔、「飯野商事が川崎にタンカー建造を発注し、そこに日本海軍からの要求が盛り込まれることになった」の二つがある〔#松井pp.138-139〕。いずれにせよ、川崎が海軍艦艇建造で実績のあったことから艦政本部の指導の下で当該タンカーの建造が進められ〔#松井p.139〕、往航時に手ぶらで航行するデメリット対策として生糸搭載スペースが設けられたが、これは有事の際には弾火薬庫に転用できるようになっていた〔。このように、何かと日本海軍の指導が入りつつ建造されたタンカーが、いわゆる「川崎型油槽船」であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川崎型油槽船」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|