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川崎 定孝(かわさき さだたか、 元禄7年3月15日(1694年4月9日) - 明和4年6月6日(1767年7月1日))は、江戸時代の農政家。宿場の名主を務め、後に抜擢され江戸幕府の旗本となった人物である。通称、平右衛門、辰之助。 == 略歴 == 武蔵国多摩郡押立村(現・東京都府中市)の名主の家の長男に生まれる。 享保年間には、樹木や竹を扱って、その世話を担当し、私財を投じて武蔵野新田の窮民の救済を行ったため、それを称揚される〔『徳川実紀』。〕。武蔵野新田を預けられ月俸10口(役料10人扶持)を給されていたが、後に支配勘定格となり月俸は20口に加増される〔『新訂 寛政重修諸家譜』第二十二 217頁〕。 宝暦4年(1754年)7月18日に美濃国の代官となり、150俵を給される〔。 明和4年(1767年)4月15日に勘定吟味役に昇進、石見国の銀山の奉行を兼役する。同年5月15日、布衣着用を許される〔。 同年6月6日に逝去。享年74。法名は道栄。故郷の押立村にある龍光寺(竜光寺)に葬られる〔。 名主・農政家として活躍するかたわら、薬の販売にも携わっており、享保17年(1732年)4月に象洞や白牛洞という薬の発売を出願・許可されている。象洞は、象〔この象は、享保15年(1730年に日本に運ばれ、中御門天皇や徳川吉宗と拝謁した象で、最後は定孝と共同経営をした中野村の源助の元に預けられ、そこで死んだ。〕の糞を乾燥させて作った丸薬で、疱瘡に効くとの触れ込みで売り出された〔薬の宣伝用に、両国橋石置場で象を見物させたが、販売はうまくいかず、借金を抱えて販売所は閉鎖に追い込まれている。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川崎定孝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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