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川崎宿(かわさきしゅく、かわさきじゅく)は、東海道五十三次の2番目の宿場である。 武蔵国橘樹郡川崎領(現在の神奈川県川崎市川崎区)に置かれた。 == 概要 == 東海道の成立時点では正式な宿場となっていなかったが、品川宿 - 神奈川宿間が往復十里と長く、伝馬の負担が重かったために、1623年(元和9年)に設置された〔『ふるさと川崎の自然と歴史(下)』、p.41。〕。 設置後には伝馬を務める農民の負担ばかりでなく、問屋場が破産に追い込まれるなどの窮状に陥り、1632年(寛永9年)には、宿役人が幕府へ川崎宿の廃止を訴える事態となった〔。幕府は問屋場などへの支援を行ったものの、廃止の願いが受け入れられることはなく、さらには伝馬の負担引き上げ、地震や富士山の噴火などで財政は困窮を極めた〔『ふるさと川崎の自然と歴史(下)』、pp.41-42。〕。 そんな中で問屋・名主・本陣の当主を一身に兼ねた田中休愚は、幕府に働きかけを行い、六郷の渡しの権益を川崎宿のものとしたほか、さらに救済金を取り付けるなど、川崎宿再建のために大きな役割を果たした〔『ふるさと川崎の自然と歴史(下)』、p.42。〕。 川崎宿維持の負担に苦しめられたのは宿の住民だけでなく、近隣の農民も助郷として負担を強いられていた〔『川崎の歴史五十三話』、p.32。〕。1694年(元禄7年)の制度発足当時は先に召集される定助郷8村と、定助郷でも不足な場合の大助郷30村というように分かれていたが、東海道の交通量増加で定助郷村の負担が過大となった結果、1725年(享保10年)には定助郷・大助郷の区分を廃止し、後にはさらに遠方の16村に加助郷が命ぜられている〔『ふるさと川崎の自然と歴史(下)』、p.47。〕。助郷負担の見返りに出る手当は微々たるものであり、またその間は農作業にもかかれず〔『川崎の歴史五十三話』、pp.32-33。〕、さらには川崎宿特有の問題として多摩川が川止めになれば何日も拘束されてしまうなど〔『ふるさと川崎の自然と歴史(下)』、p.48。〕負担は重く、助郷の免除願が出されたり〔、出勤簿だけ書いて逃走したり〔『川崎の歴史五十三話』、p.34。〕と、負担回避のための行動が行われた。延享年間以降には金納する例も現れたが、支払う金銭は高額であり、依然として助郷村は苦しむこととなった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川崎宿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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