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川崎市民球場 : ミニ英和和英辞書
川崎市民球場[かわさきし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)
: [し]
  1. (n-suf) city 
市民 : [しみん]
 【名詞】 1. citizen 2. townspeople 
: [たみ]
 【名詞】 1. nation 2. people 
: [たま, きゅう]
 【名詞】 1. globe 2. sphere 3. ball
球場 : [きゅうじょう]
 【名詞】 1. baseball stadium 
: [ば]
 【名詞】 1. place 2. field (physics) 

川崎市民球場 ( リダイレクト:川崎球場 ) : ウィキペディア日本語版
川崎球場[ふじつうすたじあむかわさき]

川崎富士見球技場川崎球場:「川崎富士見球技場」に 新スタンド完成で (2014年4月10日 毎日新聞 同9月7日閲覧)〕(かわさき ふじみ きゅうぎじょう)は、神奈川県川崎市川崎区にある球技場。命名権富士通が取得したことにより、2015年4月より「富士通スタジアム川崎(ふじつうスタジアムかわさき)」と呼称される(後述)。2000年3月31日までは野球場で、現在はアメリカンフットボール軟式野球等での利用が主となっている。施設は川崎市が所有し、東急コミュニティー川崎フロンターレ指定管理者として運営管理を行っている。本稿では1952年から2014年3月までの「川崎球場」時代、並びに2015年3月31日までの運営法人である株式会社川崎球場も含めて記述する。
== 歴史 ==

=== 開場当初 ===
京浜工業地帯の一角を占める川崎市内には多くの企業が経営や製造の拠点を置いており、戦前から社会人野球が盛んな土地柄だった。1951年、市内で新たな社会人野球向けの野球場を建設する機運が高まり、市と日本鋼管(現:JFEエンジニアリング)、東芝味の素日本コロムビア昭和電工いすゞ自動車などの主要企業が共同出資し「株式会社川崎スタジアム」が設立され、川崎市富士見の富士見公園内に川崎球場が竣工した。翌1952年3月に内野スタンドが設置され、4月3日に初めてのプロ野球公式戦として東急フライヤーズ大映スターズ戦が開催された。試合は5-3で東急が勝利。同年の川崎でのプロ野球公式戦はパ・リーグが東急や大映の他、毎日オリオンズ主催で40試合、セ・リーグ読売ジャイアンツ(巨人)及び国鉄スワローズ主催で7試合の計47試合が行われ、翌1953年も計23試合が開催された。当時はセ・パ計5球団が後楽園球場を本拠地としていたことから、川崎は首都圏でのプロ野球の日程が過密化していたのを解消するのに役立っていたといわれる。
外野の広さは公称こそ両翼90m、中堅120mだが、実際はもっと狭く、また左中間や右中間の膨らみもほとんどなかった。実測値は両翼89m、左中間105m、中堅118m、右中間103mで、実際にはこれよりさらに狭隘だったとする説もある。実際に当時、一部新聞発表で両翼は実測87mと記載があった。そのため、当時の球場の中でも狭くて本塁打の出やすい球場として知られた。また、中堅最深部が本塁と二塁を結ぶ線の延長よりやや左に寄った変形球場のため、打者の視点からは違和感を覚えることもあったとされる。当初外野スタンドはごく最小限の設備で建設され、その後左右対称に増築する計画が立案されたものの、右翼場外に道路を通すことになったのに伴い右翼側の増築部は道路の計画に沿って設計を見直し、右中間からポール際にかけて上半分を切り取るような変則的な構造となった。このため右翼側スタンドは非常に狭隘で、右翼方向への本塁打が場外に飛び出すことがよくあり、右翼スタンド上段には高い防球フェンスが設けられた。なお、国道の計画はその後経由地が変更となり、代わって市道が設けられた。
1954年、同年発足した高橋ユニオンズがプロ球団で初めて川崎球場をフランチャイズとした。同年6月にはプロ本拠地としては歴代6球場目となる照明設備が増設され、ナイターの開催が可能となった。当時の後楽園球場の照明が最大照度800Lxだったのに対し、川崎は最大1100Lxと高照度を誇っていた。ただ6基の鉄塔のうち右翼側の照明塔は、前述の敷地の関係上スタンドを跨ぐ格好で設けざるを得なかった。また設置当初はまだ電力供給が不安定だったため、周辺の工場群の電力消費がピークを迎える時間帯がたまたまナイターと重なった時には、電圧低下によって照明が消灯してしまうハプニングもしばしば発生した。
同年10月25日に開催された大映スターズ対阪急ブレーブスダブルヘッダーの観客数は2リーグ制後のプロ野球公式戦の観客動員数最少記録といわれている100人であった。なお、実数は25人だったという説もある〔鳥井守幸著『野球ふしぎ発見!』毎日新聞社刊より〕。川崎球場ではこの他にも1966年10月12日サンケイアトムズ中日ドラゴンズのダブルヘッダーで、2試合とも観客100人を記録している。なお、1リーグ制時代の最少記録は1937年7月17日洲崎球場で開催されたイーグルス名古屋金鯱軍戦の90人とされている。
1955年からは大洋ホエールズも川崎をフランチャイズとし、セ・パ計2球団が川崎に本拠地を置くことになった。しかし、高橋ユニオンズが経営悪化により1956年オフに大映スターズとの合併によって消滅したため、2球団が川崎に本拠地を置いた期間はわずか2シーズンで終わっている。同年7月28日、開場記念の試合で敗戦投手となったヴィクトル・スタルヒン近鉄パールス戦で日本プロ球界史上初の300勝を達成した。当初は同年9月4日の対大映戦で達成したとされたが、その後公式記録を訂正したため300勝目は川崎での記録となった。詳細はスタルヒンの来歴の項を参照。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「川崎球場」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kawasaki Stadium 」があります。




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