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川本 泰三(かわもと たいぞう、1914年1月17日 - 1985年9月20日)は、愛知県瀬戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者。 ベルリンオリンピック日本代表のフォワードとして活躍し、シュートの名人と呼ばれた。2013年8月14日現在、「40歳106日」の日本代表最年長出場記録を持つ〔日本サッカー協会編『日本代表公式記録集The Yearbook of JFA 2011』〕。第二次世界大戦後も現役を続けた後、日本代表監督も務めた。 == 来歴 == 小学校時代に大阪へ転居、大阪府立市岡中学からサッカーを始める。早稲田高等学院(予科に相当)を経て早稲田大学に入学。予科在学中からア式蹴球部で試合出場し、予科3年の1933年から早大の関東大学リーグ4連覇に貢献した。また、大学在学中の1936年には日本代表としてベルリンオリンピックに派遣され、ベルリンの奇跡のきっかけとなる日本の初ゴールを記録した。 大学卒業後には同盟通信社に入社したが、1941年8月に第二次世界大戦に伴って従軍。終戦とともにソ連軍の捕虜となり、4年にわたりシベリア抑留生活を余儀なくされた。 1949年12月に帰国し、35歳で現役に復帰。1954 FIFAワールドカップ・予選にも出場。また、1954年アジア競技大会の2試合に出場し、5月3日のインド代表戦ではフル出場し、「40歳106日」の日本代表最年長出場(2013年8月14日現在)を記録した。試合は2-3で敗れた。 自ら設立した大阪サッカークラブを擁して、天皇杯で3度決勝に進出するも敗れた。 1956年のメルボルンオリンピックでは竹腰重丸監督のもとで選手兼コーチとして帯同した。1958年には東京で開催されたアジア競技大会の日本代表監督に就任したが2戦2敗に終わった。 その後は日本サッカー協会理事、関西サッカー協会の理事長・会長を歴任した。関西サッカー協会理事長時代に早稲田大学の後輩でもあった釜本邦茂をヤンマーディーゼルに入るよう口説き落としたのも川本であった〔釜本邦茂 (7) 弱者を強者への決意でJSL最下位ヤンマーへ。67年開幕戦デビューで2得点 賀川サッカーライブラリー〕。 1985年9月20日、大阪市北区の住友病院において胃腫瘍により死去した〔「川本泰三氏死去」 朝日新聞、1985年9月22日、2014年8月7日閲覧〕。 2005年、サッカー功労者として日本サッカー殿堂に掲額された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川本泰三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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