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キャンティ(CHIANTI)は、東京都港区麻布台3丁目で春日商会が運営するイタリア料理店。1960年(昭和35年)の創業以来、各界著名人が利用するレストランとして知られる。店名はキャンティ・ワインにちなむ。 == 沿革 == === 川添浩史と妻梶子 === キャンティのオーナー、川添浩史(本名:川添紫郎、1913年(大正2年)2月17日 - 1970年(昭和45年)1月10日)は、伯爵後藤猛太郎の庶子として生まれ、川添家の養子として育てられた。母親は新橋芸者のおもん。祖父は大政奉還の立役者である伯爵後藤象二郎。若き頃にパリへ遊学し、写真家ロバート・キャパと交友し〔川添は井上清一と共同で、キャパの著書『ちょっとピンぼけ』(原題:Slightly out of Focus)を翻訳している(1979年初版)。〕、フランス映画の日本輸入に携わった。1938年(昭和13年)にピアニストの原智恵子と結婚し、長男の川添象郎(本名:川添象多郎)、次男の川添光郎が生まれた。パリ時代に獲得した外務省の外郭団体「国際文化振興会」嘱託という身分のまま、フランス映画の輸入のほか、上野でレオナルド・ダ・ビンチ展を開催したりといった文化活動を続けた〔野地秩嘉『キャンティ物語』 幻冬舎、1994年。〕。 戦後は高松宮宣仁親王の国際関係特別秘書となり、高輪の旧高松宮邸を改装した結婚式場「光輪閣」の支配人を務めた。また、国際人として歌舞伎や文楽の海外興行、大阪万博の富士グループパビリオン、ミュージカル『ヘアー』の日本公演など、幅広い文化プロデュース活動を行った。 川添梶子(旧姓:岩元、1928年(昭和3年)2月25日 - 1974年(昭和49年)5月17日)は、神戸市の実業家の娘として生まれる。聖心女子学院卒業後、芸術家志望で単身イタリアに渡り、彫刻家エミリオ・グレコに師事した。イタリア滞在中に結婚し1女をもうける。アズマカブキのイタリア公演にナレーターとして参加した時に浩史と知り合い、イタリア人の夫と子供を残して日本へ帰国。浩史の離婚後、1959年(昭和34年)に結婚した。 1960年4月、川添夫妻は六本木のはずれ、麻布飯倉片町8番地(現麻布台3丁目)にイタリアンレストラン「キャンティ」を開店した。発案者は妻の梶子で、日本には本格的なイタリアンレストランがまだないから、自分達でつくってしまおうという理由だった。梶子は建築家村田豊の協力をえて店の内装をデザインし、シェフやコックたちに調理法を教えた。人気メニューのスパゲッティ・バジリコは生バジルが簡単に入手できないため自宅の庭で栽培し、日本人の口に合うよう大葉やパセリを混ぜて工夫した。裏メニューとして、金曜日のみ注文できるブイヤベースも好評だった。のちに改築にともない地下1階から2階にも店を広げ、1階ではブティック「ベビードール」、2階はフランス料理、3階では会員制「キャンティシモ」の営業を開始した。 社交界でも著名で、またデザイナーとして島津貴子やグループサウンズの衣装も手がけた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キャンティ (イタリア料理店)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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