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川路 寛堂(かわじ かんどう、弘化元年12月21日(1845年1月28日) - 昭和2年(1927年)2月5日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和の旗本、大蔵省官僚、教育者。川路聖謨の孫に当たる。通称は太郎、名は温、寛堂は号だが、伊藤博文秘書役時代、公文書に寛堂と署名していたため、本名も寛堂になったという〔。 == 生涯 == === 学業 === 弘化元年(1844年)12月21日、江戸番町冬青木坂上に川路彰常の長男として生まれた〔川路、P146 - P159。〕〔川田、P366。〕。弘化3年(1847年)9月25日、2歳で父と死別し母も再婚して別離、大叔父の井上清直夫妻に引き取られ養育された。嘉永3年(1850年)2月27日に下総佐倉藩医鏑木仙安の手で牛痘を接種、嘉永4年(1851年)6月22日に6歳で奈良奉行を退任して江戸へ召還された祖父川路聖謨と面会して川路家に戻り、祖父の庇護を受けた〔〔宮永(1994年)、P19 - P20、川田、P132 - P133、P267、P366、氏家、P72、P205。〕。同年10月に大坂東町奉行に異動した祖父に連れられ大坂へ移住したが、翌嘉永5年(1852年)に祖父が江戸へ戻り勘定奉行に就任すると共に江戸へ帰着、虎ノ門屋敷へ移り住んだ〔川田、P175、P180、氏家、P205 - P213。〕。 日下部伊三治、安積艮斎に漢学を学び、昌平黌に入学。酒井良佐に剣術を学んだが、これは熱心にはなれなかったという。また箕作阮甫、蕃書調所に蘭学を学び、中浜万次郎、森山多志郎に英語を学んだ後、吉原重俊、福島敬典等と共に武田斐三郎に師事して英語、測量術を学び〔、横浜仏語伝習所でメルメ・カションにフランス語を学んだ〔宮永(1990年12月)〕〔宮永(1994年)、P20 - P21、〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川路寛堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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