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川野辺氏 : ミニ英和和英辞書
川野辺氏[かわのべし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [の]
 【名詞】 1. field 
野辺 : [のべ]
 (n) field
: [へん]
 【名詞】 1. (1) area 2. vicinity 3. (2) side (of triangle, rectangle, etc.) 4. (3) circumstances 
: [うじ]
 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth 

川野辺氏 : ウィキペディア日本語版
川野辺氏[かわのべし]
川野辺氏(かわのべし)は、日本氏族



== 川野辺氏とは ==

川野辺氏は関東豪族常陸国那珂郡から久慈郡にかけて勢力を持った武家である。本姓藤原氏家系藤原北家川辺左大臣藤原魚名の流れを汲み、平将門を征伐した鎮守府将軍藤原秀郷末裔にあたる那珂氏一門常陸守護代として水戸一帯に勢力を張った江戸氏佐竹氏宿老を輩出した川井氏、さらに平沢氏戸村氏などは川野辺氏の同族である〔藤原秀郷については野口実著『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館2001年)5頁以下、安木三郎著『藤原秀郷将軍』(牧歌舎、2006年)14頁以下参照。〕。家紋十六菊に一の字丸に三つ巴丸に剣片喰、丸に日の丸扇〔日本家紋研究会編『家紋でわかるあなたの祖先 茨城県北部地方』(日本家紋研究会、2001年)15頁、十六菊に一の字紋については日本家紋研究会編『家紋でわかるあなたの祖先 茨城県南部地方』(日本家紋研究会、2001年)20頁参照。〕。
川野辺氏は常陸国北部(常陸大宮市野口平字御城)を中心に勢力を有した。その祖先を訪ねれば正暦2年(991年)藤原秀郷の子孫、藤原通直が兄藤原通延(太田郷地頭)とともに常陸国に移り、寛治4年頃(1090年頃)、通直がはじめてこの地(川野辺郷)に野口城を築城し、川辺大夫を名乗ったという。川野辺氏が成立するのは通直から四代、那珂通泰の次男那珂資明が川野辺を称したことにはじまる〔太田亮上田萬年三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店1934年)1662頁及び1671頁参照。石川豊著『南朝秘録 那珂通辰と常陸の豪族』(いばらきタイムズ社1968年) 38頁及び41頁参照。〕。
『御前山村郷土史』によればこの野口城はその昔、川野辺郷に造られたことから川野辺城ともいい、東西150間、南北50間ほどの規模を有した。西北に空濠が巡らされ、一の堀、二の堀を構え、東に馬場があり、南に三二七米、四方を平垣で囲い士卒で敵の来襲に備えたという。築城は通直で嫡男那珂通資が川野辺大夫を名乗り城を継承した。その嫡男は通重は那珂彦次郎または川野辺彦次郎とも名乗り、那珂と川野辺の名字を併用していたと見られる。その子那珂通兼に二子あり、嫡男 通泰が那珂城に移り、那珂姓を継承、次男の資明が川野辺氏となり、川野辺城及び出丸を監守した〔石川豊前掲書(いばらきタイムズ社、1968年) 39頁~40頁参照。〕。
建武2年(1335年)に足利尊氏が後醍醐天皇と対立し、南北朝時代に突入すると、川野辺資鎮次郎親子は南朝方として兵を起こし、北朝方の常陸守護 佐竹貞義を甕ノ原で打ち破った。その後、北畠顕家にしたがって京都に上り、その地で足利尊氏と戦った。これらの功績により後醍醐天皇より「菊の御紋」を拝領したが、菊紋をそのまま使用することは憚れることから、十六菊に一の字に改めて家の名誉としたとされる〔大内政之介著『新編金砂戦国史』(筑波書林1993年)114頁参照。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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