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内藤 昌豊(ないとう まさとよ)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣で武田四天王の一人。「内藤昌豊」の名で伝わるが、1977年に服部治則は正しい実名は「内藤 昌秀(まさひで)」であると指摘している〔服部治則「内藤修理亮とその系譜」『武田氏家臣団の系譜』岩田書院、2007年〕〔「豊」は父・虎豊から1字を取ったものである。〕。 == 生涯 == === 出生から信玄時代 === 『武田三代軍記』によれば、大永2年(1522年)、武田信虎の重臣・工藤虎豊(下総守)の次男として生まれたという〔丸島(2015)、p.529〕。父・下総守の事跡は不明であるが、永正5年(1508年)に武田信虎に反乱して敗北し、郡内地方の小山田平三とともに伊豆国韮山の伊勢宗瑞(北条早雲)を頼って逃れた人物に「工藤殿」がおり、これが下総守に相当するとも考えられている〔平山(2008)、p.331〕。 初見史料は永禄2年(1559年)6月12日で、「工藤源左衛門大尉」を名乗り信玄の側近として活動していることが確認される〔丸島(2015)、p.529〕。永禄6年頃から永禄13年頃まで信濃国深志城を守備している。『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは本隊に所属し、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍したという〔丸島(2015)、p.529〕。 永禄9年(1566年)までに信濃国深志城(松本城、長野県松本市)の城代を務める〔丸島(2015)、p.529〕。武田氏は西上野侵攻を行い、同年9月に箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)を攻略し、永禄10年(1567年)3月に白井城を攻略し、西上野を領国化する。昌秀は永禄9年頃から後閑氏など上野国衆の取次を務めている〔。箕輪城代は永禄9年から翌永禄10年まで春日虎綱・真田幸綱による在番で、永禄11年(1568年)から永禄12年(1569年)には浅利信種が務めている。浅利信種は永禄12年10月6日の三増峠の戦いにおいて戦死したため、昌秀は信種の後任として永禄13年から元亀元年(1570年)4月頃までに箕輪城代となり、長篠合戦で戦死する天正3年まで務めている。なお、三増峠合戦で昌秀は小荷駄隊を率いて自軍の補給を支えたという。 永禄10年8月12日の時点では「工藤源左衛門尉昌秀」を名乗っている〔丸島(2015)、p.529〕。昌秀は永禄12年8月26日の時点で「内藤修理亮」を名乗っており、断絶していた武田家譜代の内藤家の名跡を継承し、内藤姓に改め、同時に修理亮を名乗ったと考えられている(工藤氏の家督は兄・昌祐が継いだ)。昌秀は永禄13年4月3日付武田信玄書状において「内藤修理亮」を称していることが確認され、同月10日には箕輪城代着任が確認される。このため、内藤改姓は箕輪城代就任に伴うものであったとも考えられている。 元亀2年(1571年)12月には越後上杉氏から上杉家臣北条高広・景家を通じて同盟の申し出があり、このころ武田氏は北条氏政と甲相同盟を結んでいたため、昌秀は信玄側近の跡部勝資と協議し、これを退けている〔丸島(2015)、p.530〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤昌豊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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