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工藤 時光(くどう ときみつ)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。出家後、工藤二郎右衛門入道と称する〔北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』P.76「工藤杲禅」の項(執筆:末木より子)。〕(「南家伊東氏藤原姓大系図」〔宝永5年(1708年)成立。編者は日向飫肥藩主伊東祐丕の家臣・山田宗武。飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯、1977年)や『伊東市史 史料偏 古代・中世』(2006年)にも掲載。(以上は今野、2007年による。)〕にも掲載あり)。奥州工藤氏の一族。 == 人物 == 出家後〔今野慶信はこの時期について「出家はおそらく弘安7年(1284年)の北条時宗(道杲)の出家に伴うもの」(今野、2007年、P.114)と推測している。なおこの文言からすると、今野は「杲」の字が時宗の法号である「道杲」に由来することを想定しているものと考えられる。〕の法号である工藤杲禅(こうぜん)、工藤杲暁(こうぎょう)の方が比較的知られており、史料〔「若狭国守護職次第」、「若狭国今富名領主次第」。〕で工藤貞祐の父と解っていながらも長らく実名や系譜が判明していなかった〔北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』P.76「工藤杲禅」の項では「実名不詳」としていた。〕が、工藤氏の系図(「南家伊東氏藤原姓大系図」〔)に注記が見られることが今野慶信の研究で明らかにされて以来は工藤時光に比定されるようになっており〔今野、2007年。細川、2011年、P.187。〕、同系図では工藤高光の子で工藤祐光の弟に位置づけられている。尚、実名の「時」の字は、これを通字とする北条氏から拝領したものとみられる。 主な活動としては出家後に見られ、得宗・北条貞時の下で、得宗家公文所執事〔細川、2011年、P.187。〕や、得宗分国である若狭の守護代を務めた〔ことが確認できる。また、飯沼助宗らと共に引付の監督を命じられたようである〔。 法名については「若狭国守護職次第」では「工藤右衛門入道果禪。本果曉。」〔原文ママ〕、「若狭国今富名領主次第」では工藤右衛門入道杲禪の注記に「初杲禪。後に弘安九年改杲曉。」と書かれていて名乗りの順序が異なっているが、いずれにせよ杲禅と杲暁が同一人物であったことは確かである。法名の名乗りについては、若狭守護代となった弘安年間より後に「杲禅」を名乗ったことが確認できる〔弘安9年(1286年)12月5日付 「北条貞時寄進状」(『相州文書所収 法華堂文書』、『鎌倉遺文』16066号)、正応4年(1291年)8月20日付 「関東評定事書」(新編追加、『鎌倉遺文』17664号)。〕が、正安3年(1301年)3月9日付の「得宗公文所奉行人連署奉書」〔『多田神社文書』、『鎌倉遺文』第27巻・20726号。〕の奉者第一位にある「杲勝」が、その花押〔時光(杲禅)の花押については、『北条氏系譜人名辞典』P.76「工藤杲禅」の項 を参照のこと。〕から時光と同一人物とされており〔小泉聖恵 「得宗家の支配構造(研究)」(『お茶の水史学』、1996年12月)脚注(38)。〕、その「こうしょう」という読みからこの当時は「杲暁」を称していたものとみられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「工藤時光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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