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工藤 貞祐(くどう さだすけ)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。 == 略歴 == 北条貞時より偏諱(「貞」の1字)を受けており〔、貞時が得宗家当主であった期間(弘安7年(1284年)-応長元年(1311年))内に元服したものとみられる。 貞時・高時父子に仕える。幕府内では、徳治2年(1307年)、円覚寺の北条時宗忌日斎会には二番衆の筆頭として定められる〔徳治2年5月?日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『相模円覚寺文書』、『鎌倉遺文』30巻・22978号)。〕ほか、得宗領である若狭国の守護代を延慶2年(1309年)から正中元年(1324年)まで〔「若狭国守護職次第」、「若狭国今富名領主次第」。〕、摂津国多田庄の「多田院造営惣奉行」〔多田院の領主である北条氏の意向を受けて、現地で年貢や公事の徴収にあたる政所を指揮・管理する役職のこと。小田雄三は貞祐を「多田院政所」としている(同氏「摂津多田庄と鎌倉北条氏」、所収:『名古屋大学教養部紀要 34輯』)が、貞祐が公文所の命を受けて多田院政所に宛てた書状が残っていることから、貞祐自身はそれを指揮する立場の「多田院造営惣奉行」であったとされている(星野重治 「南北朝期における摂津国多田院と佐々木京極氏 分郡守護論(守護職分割論)の再検討を中心に」(所収:『上智史學』48、2003年))。〕を延慶元年(1308年)〔延慶元年11月23日付 「関東下知状」(『山城醍醐寺文書』、『鎌倉遺文』31巻・23463号)。〕から元徳3/元弘元年(1331年)〔元徳3年11月21日付 「工藤貞祐施行状」(『摂津多田神社文書』、『鎌倉遺文』40巻・31545号)。〕まで務めたことが確認できる〔。元亨3年(1323年)10月の貞時13回忌法要では、一品経の妙音品や砂金50両を調進している〔。 嘉暦元年(1326年)3月、奥州で発生した安東氏一族の紛争(安藤氏の乱)を鎮圧すべく幕府軍出兵隊の一人として出陣し、同年7月には安東季長を捕らえて帰国している〔〔『鎌倉年代記』裏書や「北條九代記」には、「工藤右衛門尉祐貞」の名で記されている。〕。翌嘉暦2年(1327年)の9月7日には母(名や系譜は不詳)が駿河国で死去したようである〔〔年月日不詳 「金澤貞顕書状」(『金沢文庫文書』、『鎌倉遺文』38巻・30036号)。〕。貞祐自身のその後については不明であるが、前述の通り元徳3年/元弘元年(1331年)までの生存は確認できる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「工藤貞祐」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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