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藤原 道雅(ふじわら の みちまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。儀同三司・伊周の長男。小倉百人一首では左京大夫道雅。 == 経歴 == 祖父の中関白道隆に溺愛されて育つが、長徳元年(995年)に道隆は死去、さらに、翌長徳2年(996年)内大臣という高官にあった父・伊周が花山法皇に対し弓を射掛ける不敬事件を起こして大宰権帥に左遷され(長徳の変)、実家の中関白家が没落する中で成長する。 長保6年(1004年)従五位下に叙せられる。右兵衛権佐・右近衛少将を経たのち〔『御堂関白記』〕、寛弘8年(1011年)春宮権亮に任ぜられて、春宮・敦成親王(後の後一条天皇)に仕える。しかし、長和2年(1013年)三条天皇の皇子・敦明親王(後一条朝の皇太子)の従者であった織部司桃文師・小野為明が敦明の母である皇后・藤原娍子が住む弘徽殿に参上したところを、敦成親王の従者に拉致させ自邸へ連行させる。自邸において道雅は自ら為明の髪を掴んで周囲の者に打ち踏ませ、瀕死の重傷を負わせた。その後、敦明親王から訴えがあり、道雅は謹慎処分に処された〔『小右記』〕。 長和4年(1015年)左近衛中将。長和5年(1016年)正月に後一条天皇践祚に際して藤原資平とともに蔵人頭に任じられたが、間もなく春宮権亮の功労という名目で従三位に叙せられて、在任8日目で蔵人頭を更迭されてしまう。更に同年9月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王と密通し、これを知った内親王の父三条院の怒りに触れて勅勘を被った。また、仲を裂かれた当子内親王は翌寛仁元年(1017年)に病により出家した〔。 万寿元年(1024年)12月6日に花山法皇の皇女である上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝に死体が野犬に食われた姿で発見された〔『小右記』万寿元年12月8日条〕。この事件は朝廷の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)3月に右衛門尉・平時通が容疑者として法師隆範を捕縛する。検非違使が尋問するも隆範は口が堅く、7月25日になってようやく隆範は道雅の命で皇女を殺害したと自白する。この自白の連絡を受けて、権力者の藤原道長・頼通親子も驚嘆したという〔『小右記』万寿2年7月25日条〕。しかし、7月28日にこの殺害事件を起こした盗賊の首領という者が自首を申し出る。しかし、この首領に対する拷問実施の是非について判断しかねた検非違使別当・藤原経通から意見を求められた右大臣・藤原実資は、自首犯に対して拷問を行った事例はないとして不要の旨を、さらには首領に対する罪状を検非違使で決定すべきでない旨を回答している〔『小右記』万寿2年7月28日条〕。結局、誰がこの首領を殺人事件の主犯として認定したのか、どのような刑罰に処したのか、そもそもこの主犯の氏名は何か、が各種記録に残っておらず、どのような形でこの事件が決着したのか明らかではない〔繁田141 〕。なお、この事件の影響によるものか、翌万寿3年(1026年)に道雅は左近衛中将兼伊予権守を罷免され、右京権大夫(正五位上相当官)に左遷されている。 万寿4年(1027年)には、帯刀長・高階順業と賭博に興じていたところ激しい口論を始め、ついには道雅の狩衣の袖先を引き破った順業の乳父・惟宗兼任と路上で取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。そのため、往来の人々がこの喧嘩を見物するために大勢集まったという〔『小右記』万寿4年7月18日条〕。 その後、寛徳2年(1045年)左京大夫に転じるも、従三位から昇進できぬまま、天喜2年(1054年)7月10日に出家し、20日薨去。享年63。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原道雅」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fujiwara no Michimasa 」があります。 スポンサード リンク
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