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左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。落語や講談、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。 日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代~江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。 == 伝承と関連する逸話 == 逸話などでその存在さえも疑われているが、『日本歴史大辞典』(河出書房新社、1977年、原田伴彦執筆)など実在の人物として記述している文献も見られる。 足利家臣伊丹左近尉正利を父として、文禄3年(1594年)播州明石に生まれた。父親の亡き後、叔父である飛騨高山金森家家臣河合忠左衛門宅に寄寓。1606年、京伏見禁裏大工棟梁遊左法橋与平次の弟子となり彼になった。元和5年(1619年)に江戸へ下り、徳川家大工棟甲良豊後宗広(こうら)〔甲良氏〕の女婿となり、堂宮大工棟梁として名を上げた。 江戸城改築に参画し、西の丸地下道の秘密計画保持のために襲われたが、刺客を倒し、寛永11年(1634年)から庇護者老中土井大炒頭利勝の女婿讃岐高松藩主生駒高俊のもとに亡命。その後、寛永17年(1640年)に京都に戻り、師の名を継いで禁裏大工棟梁を拝命、法橋の官位を得た後、寛永19年(1642年)高松藩の客文頭領となったが、慶安4年頃(1651年)に逝去。享年58。 上記の経歴は左家の末裔・左光挙の著『左甚五郎の事蹟とその後』(1964年)、『名工左甚五郎の一生』(1971年)による。 名工・左甚五郎のモデル、岸上一族の一人である初代・岸上甚五郎左義信は1504年に誕生し66歳で没したとされている。 16歳の時に多武峯十三塔その他を建立し、その時の天下人に「見事である。昔より右に出る者はいない。」「それでは甚五郎は左である。」「左を号すべし。」と言わしめた。 そのお達しにより、位(号)として”左”を名乗ったと云われている。 実在の人物であり貝塚生まれであるということを実証する資料として西光寺(香芝市)鳳凰の欄間がある。 *上記についての参考文献は『名工左甚五郎 その一門』『彫物太鼓台』見学稔氏著書、などである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「左甚五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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