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左近桜(さこんのさくら)は、平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て左にあった桜の樹。右近橘に相対した。左近桜という名称は、殿上で儀式のあるときこの桜の方に左近衛の陣を敷いたことによる。南殿の桜ともいう。 もとは梅の樹で桓武天皇の平安京遷都のときに植えられたが、承和年間(834年-847年)に枯死したため、仁明天皇のときに梅の代わりに桜を植えた〔ウィーベ・カウテルト Kuitert Wybe『ランドスケープ研究』(2007年11月)、71巻(3)号、日本造園学会、pp.248~252、ISSN 1340-8984、閲覧2010年9月30日〕〔『古事談』 第六 一 南殿の桜・橘の樹の事〕。貞観16年に暴風雨で吹き倒れている〔『日本三代実録』 貞観16年8月24日条〕。 貞観年間(859年-876年)に枯れたが、その根から生じた芽を坂上瀧守が勅命で培養し、ふたたび枝葉が盛んになった〔『禁秘抄』 上〕。 天徳4年(960年)9月、内裏焼失のとき桜も焼けたため、内裏造営に及んで、重明親王の家(のちの東三条殿)の吉野桜(ヤマザクラと考えられる〔)を移植〔し、康保元年(964年)11月、同2年(965年)正月の2回にわたり改栽した。その後もしばしば焼け、堀河天皇のときに植えたもの〔が最後となった。このときの桜は承久元年、源頼茂が後鳥羽上皇によって討たれた際、殿舎に火をかけて自殺したときに焼けてしまった。翌2年に大内裏造営にあたり、源光行の家にこの桜からとった種があったため、これを植えた〔『古今著聞集』 巻十九 六五〇 南殿の桜は式部卿重明親王家より移植の後、度々焼亡の事〕。なお大内裏造営は翌3年に承久の乱のために一時中断し、再開したものの安貞元年4月に火災のために造営中の建物も、光行の家から植えた桜も焼失した。 その後は里内裏をもって大内裏の代わりとしたが、里内裏でも桜を植える風習が続いた〔山田孝雄 山田忠雄 校訳 『櫻史』 講談社学術文庫 ISBN 4061589164、101p〕が、植える作業を行うのは左近衛大将というしきたりであり、長享元年に新しく桜を植えた際には、ときの左大将近衛尚通があたっている〔山田、138p〕。 現在の京都御所にも古式に則って再建されたものが伝わっている。 == 備考 == 平安神宮内にある大極殿を模して建立された外拝殿にも左近桜が存在する。また、雛祭りでひな壇に並べられることもある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「左近桜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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