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巨勢 至忠(こせ ゆきただ、享保12年(1727年) - 安永7年12月19日(1779年2月5日))は、江戸時代の旗本。巨勢至信の婿養子で、実父は土岐朝澄、実母は江原全玄の娘〔「寛政重脩諸家譜. 第8輯」 による。本文は161-162頁、コマ番号は92-93頁。〕。初名は利信、通称は新蔵、六左衛門、官位は従五位下、伊豆守、日向守、法名は超道〔。前妻は巨勢至信の2女、後妻は毛利高慶の娘〔。養子に巨勢至健(松平忠刻の4男)、巨勢至方(大岡忠光の3男)、巨勢至親(板倉勝興の3男)、実子に巨勢利貞(病弱につき家督を継がず)、養女1人(実父:土岐朝貞、巨勢至健室→巨勢至方室→巨勢至親室)がいる〔。 ==生涯== 先祖は古代豪族の巨勢氏とされる〔。巨勢利次が姓を橘氏に改めて中井氏を称したが、巨勢利清の代に至ってまた巨勢氏を称したという〔。 延享2年(1745年)、初めて徳川吉宗に御目見し、宝暦元年(1751年)に旗本寄合席に列した〔。宝暦3年(1753年)に定火消となり、布衣の着用を許された〔。宝暦9年(1759年)、江戸城西城に勤めて小姓組番頭に昇進し、従五位日向守に叙せられた〔。宝暦11年(1759年)に江戸本城勤務となり、御書院番の番頭となった〔。明和3年(1766年)、御側に昇進し、安永5年(1776年)には徳川家治の日光山行幸にも付き添っている〔。安永7年(1778年)12月16日、病を得て務めを破棄しようとしたものの許されず、心を落ち着けて療養すべしとして命令を受けた〔。3日後の12月19日に死去、享年52〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「巨勢至忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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