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巻き返し(まきかえし、rollback)とは、国家の主要政策の変革を(通常、支配体制の転換によって)強制する戦略のことである。この概念は、国家の拡大阻止を意味する封じ込めや、国家との連携を意味するデタントと対照をなす。学術論文中の巻き返しに関する議論の大半は、冷戦中の共産主義国に対する米国の外交政策に関するものである。1950年に朝鮮で、また1961年にはキューバで巻き返し戦略が図られたが、失敗した。 米国の政治指導部は、1953年の東ドイツにおける反乱や1956年のハンガリーにおける革命の際にも巻き返しの実施を検討したが、ソヴィエト連邦の干渉と激突の危険を避けるために、反乱勢力に不利な決定を下した。共和党のバリー・ゴールドウォーター上院議員は、1962年に上梓した本の表題にもあるように、『なぜ勝たないのか (''Why Not Victory?'')』と問い質した。しかし、ソ連と核戦争を起こしかねない危険人物とされた彼は、1964年の大統領選で地滑り的大敗を喫した。 巻き返し戦略は、1983年のグレナダ侵攻で成功を収めた。ロナルド・レーガンは1980年代、自ら名付けたところの「悪の帝国(ソ連)」に対する巻き返し戦略を推進した。 北大西洋条約機構はターリバーンの支配を終わらせるために、2001年以降アフガニスタンで巻き返し戦略を展開した。 反米政権に対する巻き返しは、南北戦争(1861年-1865年)、第一次世界大戦(対ドイツ:1918年)、第二次世界大戦(対イタリア:1943年、対ドイツ:1945年、対日本:1945年)、1953年のイランのクーデター(対モハンマド・モサッデク)、チリ(対サルバドール・アジェンデ)、パナマ(対マヌエル・ノリエガ)、イラク(対サッダーム・フセイン)で起こった。 今日では、巻き返しは時として「体制転換 (regime change)」と呼ばれる。 == 冷戦中の巻き返し == === 初期 === 米国の戦略的用語法によれば、巻き返しとは敵軍を殲滅して国家を占領する政策のことであり、南北戦争においてはアメリカ連合国に対して、第二次世界大戦においては主にドイツと日本に対して実施された。 軍事的巻き返しの概念は、ソ連に対してはジェームズ・バーナムや1940年代後期の他の戦略家らによって、朝鮮戦争時の北朝鮮に対してはトルーマン政権によって示された。 「米国は東欧の共産主義に対して巻き返し戦略を推進すべきか否か」という問題が、1953年から1956年にかけて繰り返し討議された。結論は、「すべきでない」であった。 軍事的巻き返しの代わりに、米国は長期的心理戦計画を開始し、共産体制や親共産体制の合法性を認めないことによって反乱軍の支援を図った。これらの試みは、1945年という早い時期に東欧で始まった。例えば、バルト三国やウクライナの独立派の兵士に武器を供与する取り組みである。初期におけるもう1つの取り組みは1949年にアルバニアに対して行われた。これは、同年のギリシャ内戦における共産勢力の敗北後になされた。この時、英米の工作員が落下傘降下してアルバニアに入国し、ゲリラ戦を起こそうと図ったが、失敗に終わった。作戦の情報は、既に英国の二重スパイキム・フィルビーによってソ連に売り渡されており、工作員の即時捕獲または殺害を招いた。このプロセスは、1980年代のソ連によるアフガニスタン占領において最も成功した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「巻き返し」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Rollback 」があります。 スポンサード リンク
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