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市ヶ谷 廣輝 (いちがたに ひろき、1969年5月6日 - )は、日本のフェンシング選手。 == 人物・来歴 == 鹿児島県出身。鹿児島県立鹿児島南高等学校から日本体育大学体育学部体育学科卒業。種目はフルーレ、エペ、サーブル。香川県高校教員。左利き。 1991年から1999年までの9年間、フルーレ、エペでナショナルチームに所属しており、1990年代の日本男子フェンシング界を代表する選手の一人。 鹿児島南高等学校でフェンシングを始め、高校3年のときにサーブルでインターハイを制している。日本体育大学に進学後はフルーレ、エペで実績を残す。大学2年から4年までの3年間は、全日本選手権で三種目ともベスト8以内に入賞している。また、全日本学生フェンシング選手権大会サーブル団体戦決勝において下馬評を覆して三連覇中の法政大学を破り初の大学日本一に導いている。 1992年には、フルーレでバルセロナオリンピックに出場し、予選プールを4勝2敗で突破して決勝トーナメントに進出したが、スペインのガルシア選手に惜敗した。その後は香川県の大川東高校で指導者としての実績を残しながら選手としても戦い続け、1996年、フルーレでアトランタオリンピックの出場権(アジア・オセアニア地区予選で優勝)を獲得。アトランタオリンピックでは一回戦で当時世界ランキング5位のポーランド、キエルピコフスキーと対戦、途中7連続ポイントなど、見せ場を作ったものの13 - 15で敗退した。 1995年には、日本人選手として17年ぶりとなるアジア選手権大会で優勝した。1999年の世界選手権を最後に代表は引退した後も国民体育大会、全日本選手権などの日本国内の大会に出場している。 2005年にはジュニア世界選手権大会(オーストリア)日本代表の総監督を務め、日本チームとして初のフルーレ個人・団体の銅メダル獲得に貢献した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市ヶ谷廣輝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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