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市原合戦(いちはらかっせん)は、治承4年(1180年)9月7日に信濃国で起きた合戦。「善光寺裏合戦」とも呼ばれる治承・寿永の乱の中で起きた合戦の一つ。史料上に初めて現れる源義仲が関与した戦いである。 == 経過 == 平家に与する信濃の豪族・笠原平五頼直〔中野市笠原が支配地域と考えられる〕が源義仲討伐のため、木曾への侵攻を企てた〔ただし、市原合戦当時の義仲は滋野氏の支援を受けて拠点を木曽郡から佐久郡・小県郡に移していたとする一志茂樹・菱沼一憲の説もある。この説に従えば、笠原の侵攻目的は佐久・小県方面だったことになる。〕。それを察した源氏方(信濃源氏の井上氏の一族)の村山七郎義直〔長野市と須坂市にまたがる村山を支配地域とした説と長野市篠ノ井山布施の村山が拠点とした説がある〕と栗田寺別当大法師範覚(長野市栗田)らとの間で治承4年(1180年)9月7日に信濃国水内郡市原〔現在の長野市若里、市村神社南面に当たる川中島への犀川渡河地域と考えられている〕付近での戦いが行われた〔『吾妻鏡』は合戦発生地を「市原」とするが、笠原・村山・栗田の諸氏の勢力圏内に該当する地名が無いため、栗田の本拠地に近い「市村(郷)」の誤記と言われている。〕。 勝敗は中々決着せず、ついに日没に至る。矢が尽きて劣勢となった村山方は、源義仲に援軍を要請した。それに応じて大軍を率いて現れた義仲軍を見て、笠原勢は即座に退却した。そして、越後の豪族・城氏の元へと逃げ込んだ(『吾妻鏡』同日条)。 このため城資職が源義仲軍の討滅を期して大軍を率いて信濃国に侵攻した。そして川中島への千曲川渡河地域となる雨宮の渡しの対岸に当たる横田城に布陣した。こうして横田河原の戦いへと続くこととなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市原合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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