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市島謙吉 : ミニ英和和英辞書
市島謙吉[いちしま けんきち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [し]
  1. (n-suf) city 
: [しま]
 【名詞】 1. island 

市島謙吉 : ウィキペディア日本語版
市島謙吉[いちしま けんきち]
市島 謙吉(いちしま けんきち、安政7年2月17日1860年3月9日) - 昭和19年(1944年4月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)、早稲田大学初代図書館長。
==経歴==
安政7年(1860年2月17日越後国北蒲原郡水原(現在の新潟県阿賀野市)に角市市島家五代目直太郎の長男として生まれた。幼名は雄之助とされるが、これは病弱のため八幡宮より一時的に貰ったものである。
市島家は丹波国発祥で、慶長3年(1598年)越後に移り、商業で財を成した豪農一族で、角市家は宗家三代目喜右衛門の二男次郎吉から始まる筆頭分家であった。市島岱海等文人を輩出する家柄としても知られていた。
文化資本に恵まれた謙吉は、幼少より英才教育を受けた。明治3年(1870年水原県立広業館で星野恒に漢学を学び、翌年新潟学校(現在の新潟大学教育学部)に入学して英語を学ぶ。明治7年(1874年)上京して東京英語学校(現在の東京外国語大学)に入学した。明治11年(1878年)東京大学文学部に入学、高田早苗坪内逍遥山田一郎有賀長雄天野為之福井彦次郎真崎孝人と同級となり、後の足掛かりとなる人脈を得た。
在学3年次に父の養蚕事業が失敗し、叔父和泉巖吉に援助を受けるも、結局翌年に中退。小野義眞の斡旋で郵便汽船三菱会社運賃課長を4ヶ月務めた後、明治十四年の政変で下野していた大隈重信に就き、小野梓等と立憲改進党の設立に参画した。
同年内外政党事情を発刊するが、翌年に廃刊。越後に戻り高田新聞を立ち上げ、論弁を振るった。この時、上杉謙信の居城春日山城に因み、山田喜之助より春城を贈号された。同年新潟で起こった高田事件を批判する記事で改正新聞紙条例筆禍第一号として検挙、投獄された。
明治18年(1885年)出獄、叔父和泉新平の八女ユキと入籍、東京専門学校(現在の早稲田大学)で政治学を教えた。翌年新潟に戻り、新潟新聞に参加、大同団結運動反対の論陣を張り政治活動を続けた。
明治23年(1890年衆議院第1回衆議院議員総選挙新潟2区に立憲改進党から出馬し、大同団結派の丹呉直平加藤勝弥に破れ落選した。読売新聞社に入社、翌年高田早苗を継ぎ主筆となる。第2,3回も出馬するが落選。明治27年(1894年)10月、第4回衆議院議員総選挙で立憲改進党から出馬しようやく初当選が叶う。以後3期務めた。
明治31年(1898年)の風邪を契機に体調が悪化、明治34年(1901年)新潟で入浴中に喀血し、遂に衆議院議員を辞職、政治活動を断念した。高田早苗の薦めによって東京専門学校図書館長に就任、翌年小野梓の遺志であった東京専門学校の私立大学改組が実現し、早稲田大学初代図書館長となった。大正6年(1917年早稲田騒動で辞するまで初代早稲田大学図書館長として和漢洋の蔵書の拡充に奔走した。
明治36年(1903年)日本文庫協会(後日本図書館協会)を設立、第一回図書館事項講習会を行い日本の司書制度の濫觴となった。大日本文明協会、国書保存会(後国書刊行会)、日清印刷(現大日本印刷)等にも携わり、印刷業界でも精力的に活動した。晩年は随筆も多く執筆した。
昭和14年(1939年)に脳溢血で倒れる。昭和19年(1944年)死去。翌年の東京大空襲牛込区東五軒町の居宅は全焼。家督は二男昂が継いだ。
生誕150年にあたる平成22年(2010年)、早稲田大学中央図書館前及び新発田市市島邸に銅像が設置された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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