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市川 久夫(いちかわ ひさお、1914年〔Webcat Plus 〕 - 2002年3月25日)は、日本の劇映画・テレビドラマのプロデューサー。生涯で映画約100作品、テレビドラマ約600話の制作に携わった。 == 来歴 == 東京都本所区(現:墨田区)生まれ。東京外語大学卒業〔http://www1.odn.ne.jp/sanjinkai/syoukai/yokogao/yokogao43.html 山人会 ホームページ 会員の横顔 1978年/山人会報43号より〕。逓信省の職員を経て、1939年に新興キネマ(後に大映へ戦時統合)に入社し、宣伝部を経て同社系列の記録映画会社である東京文化映画製作所にて「病院船」の制作を担当。その後、企画担当作品「風雪の春」の撮影中に応召により、ソ満国境へ赴くが、1945年11月の帰国と共に大映に復帰し「赤線地帯」、「静かなる決闘」等の企画・製作にあたり、大映の黄金期を担う。また、脚本家養成所を大映東京撮影所内に設営し、人材育成にも努めた。1957年、大映の専務であった曽我正史らと共に大映から独立し、日映の設立に関わり、「怒りの孤島」など2作品を制作。1958年に千葉泰樹監督や、脚本家の猪俣勝人の推薦により東宝移り、「非情都市」をはじめ、宝塚映画などの作品を企画・製作すると共に、三船プロダクションの設立への協力を行う。後に同社テレビ部に移動し、刑事物、時代劇などの制作を行う。同社退職後、フリーでのプロデュースを行い、「鬼平犯科帳」、「剣客商売」、「編笠十兵衛」を世に送り出した。2000年代初頭まで映像制作に参画した。 全国信用金庫協会の発行によるフリーマガジン「楽しいわが家」に回顧録を連載し、一部に筆を加えて「人間走馬燈」を刊行。また、大映東京撮影所が所在した東京都調布市に1948年より居住した縁で、映画・テレビの製作の傍ら “映画のまち調布”の映画史の編纂も行った。1992年、エランドール賞を受賞。2002年、心不全のため調布市の自宅で死去、87歳〔市川久夫氏死去/「鬼平」をテレビ時代劇化 - 四国新聞社〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市川久夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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