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市川 大祐(いちかわ だいすけ、1980年5月14日 - )は、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダー。日本代表にも選出され、2002年ワールドカップに出場した。「17歳322日」という日本代表最年少出場記録を持つ(2014年時点)〔日本サッカー協会編「日本代表公式記録集The Yearbook of JFA 2011」〕。 == 来歴 == 清水エスパルスユースに所属し、ユースの各年代の日本代表として国際試合を多数経験した。Jリーグデビューは、静岡県立清水工業高等学校2年から3年に進級する17歳のときで、1998年3月21日のホーム日本平スタジアムでのJ昇格直後のコンサドーレ札幌との開幕戦。同年11月14日のジェフ市原戦で初ゴールを決めた。 国際Aマッチデビューは、1998年4月1日に韓国の首都ソウルで開催された親善試合韓国戦で、高校在学中の17歳322日での出場は2014年現在でも史上最年少記録である〔。同年に開催されたFIFAワールドカップ・フランス大会では、岡田武史監督の判断で三浦知良や北澤豪らとともに直前で代表から漏れるが、チームには帯同している。 1999年のエスパルスのセカンドステージ優勝、2000年のアジアカップウィナーズカップ優勝に貢献。2001年度の天皇杯優勝時は負傷中であったため、右サイドはユースで同期の平松康平が務めた。当時、エスパルスの両翼は右に市川、左に三都主アレサンドロを擁し、強力なサイド攻撃を構成した。 フィリップ・トルシエ監督が三つの年代を指揮した日本代表チームでは、就任当初から高い信頼と評価を受ける。だが、オーバートレーニング症候群を発症し、代表から長期間離脱。シドニーオリンピックも、本戦には出場できなかった。後にフル代表に復帰すると、2002年FIFAワールドカップ・日韓大会にも出場。チュニジア戦では鮮やかなクロスボールで中田英寿の得点をアシストするなど活躍。サイドにそれを本職とする選手を配置することが少ないトルシエのシステムにあって、2002年W杯の日本代表で唯一本職の右サイドのプレーヤーとして選出されていた。トルコ戦で敗れてベスト16が決定した際に涙を流し、トルシエに健闘を称えられた。その後は、オーバートレーニング症候群やケガなどで安定したコンディションを維持できない事が多く、ジーコ体制以降は代表から遠ざかった。 2003年12月に同じ年齢の女性と結婚。2004年のシーズンは、怪我により活躍が出来なかった2003年より出場機会が増え、2006年にはリーグ戦で4年ぶりのゴールを決めるなど復調。特にサイドハーフの兵働昭弘と連動したサイドアタックは、チームの主要な攻撃パターンの一つになっている。2007年には、フェルナンジーニョの加入により中盤がダイヤモンド型に変更されたため、サイドバックの前方に大きなスペースが作られ、トップ下フェルナンジーニョのドリブルキープから市川のミドルシュートという攻撃パターンが確立された。 2009年シーズン序盤は不調により高木純平にポジションを奪われたが、第14節の山形戦以降はスタメンの座を取り戻した。敵陣中央でのパス交換から右サイドをオーバーラップした市川に渡り、ニアサイドに飛び込んでくる岡崎慎司、枝村匠馬にクロスで合わせるというパターンが確立し、14試合で9アシスト1得点を決めた〔http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2009/09/28/05.html〕。 2010年11月、ユースより所属していた清水から戦力外通告を受け退団。 2011年よりJ1に昇格し戦力補強を望んでいたヴァンフォーレ甲府よりオファーがあり、同じく戦力外となったチームメイト伊東輝悦と共に移籍。引き続きJ1でプレーをすることとなったが、同年限りで戦力外通告を受け甲府を退団。 2012年は水戸ホーリーホックに移籍したが、またも同年限りで戦力外通告を受け水戸を退団。 その後Jリーグクラブからのオファーは1件も無く、2013年よりJFL(当時)に所属する地元静岡の藤枝MYFCへ移籍。 2015年7月27日、FC今治への入団が発表された。しかし、同年11月に退団を発表された。 2016年1月7日、ヴァンラーレ八戸への入団が発表された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市川大祐」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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