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市川 小文治(いちかわ こぶんじ、1893年4月13日 - 1976年1月9日〔『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.130。〕)は、日本の俳優である。関西歌舞伎に始まり、サイレント映画時代の剣戟映画、時代劇に第二次世界大戦後まで映画出演した〔。本名は矢野 正三郎(やの しょうざぶろう)である〔〔『日本俳優名鑑 - 映画俳優の部』、「芝居とキネマ」昭和4年1月号新春付録、1929年。〕。 == 人物・来歴 == 1893年(明治26年)4月13日、大阪府に「矢野正三郎」として生まれる〔。 子役として舞台に上がり、名題役者となった関西歌舞伎の時代を経て〔、1924年(大正13年)、東亜キネマ等持院撮影所に入社した〔。翌1925年(大正14年)、仁科熊彦監督の『悲しき仇討』に主演した〔。同年、東亜キネマから牧野省三らが分離独立し、マキノ・プロダクション設立当初は東亜キネマに残ったが、1926年(大正15年)の、長尾史録監督の『花川戸助六』を最後に、マキノに移籍した〔。1928年(昭和3年)、牧野が監督した『忠魂義烈 実録忠臣蔵』に吉良上野介義央と片岡源五右衛門高房を二役演じ分けた後に、片岡千恵蔵ら幹部スターの大量退社に際して同行し、市川小文治歌舞伎映画プロダクションを興す。 片岡千恵蔵プロダクション、中根龍太郎喜劇プロダクション、山口俊雄プロダクション、嵐寛寿郎プロダクションの作品に出演したのちに、1929年(昭和3年)、日活太秦撮影所に入社する。当時の『芝居とキネマ』誌によれば、身長5尺6寸(169.7センチメートル)、体重14貫500匁(54.37キログラム)という体格、京都市千本通千本座北詰(現在の同市上京区泰童片原町あたり)在住とあった〔。 戦後も大映京都撮影所やマキノ正博(のちのマキノ雅弘)の興したシネマ・アーチスト・コーポレーション等の時代劇映画に出演した。1953年(昭和28年)をもって事実上引退した。生涯200作を超える映画に出演した。 1976年(昭和51年)1月9日、死去した〔。満82歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市川小文治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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