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初代 市川右團次(しょだい いちかわ うだんじ、天保14年7月16日(1843年8月11日) - 大正5年(1916年)3月18日)は、幕末から大正初期にかけて活躍した上方の歌舞伎役者。屋号ははじめ鶴屋、のち髙嶋屋。俳名に家升・采玉・米玉、雅号に夜霜庵。隠居名の市川 斎入(いちかわ さいにゅう)としても知られる。本名は市川 福太郎(いちかわ ふくたろう)。 == 来歴 == 市川福太郎は四代目市川小團次の実子だが、小團次には養子の初代市川左團次がおり、これがすでに役者として大成していた。そこで小團次は福太郎をあえて役者にしようとはせず、まだ赤子の頃に大坂道頓堀の芝居茶屋・鶴屋に丁稚奉公に出すが、実際は体よく養子に出したようなものだった。しかし福太郎は成長しても商いごとには一向に興味を示さず、芝居の真似事ばかりしていたので愛想を尽かされ、事実上の離縁となって実家に戻る。そこで晴れて役者に転身、1852年(嘉永5年)2月若太夫の芝居『伊賀越道中双六』に本名の市川福太郎で初舞台を踏んだ。 1862年(文久2年)江戸に下り父と共演するが、間もなく両親が不和となって上方に帰り、その年の8月に京の北側芝居で初代市川右團次を襲名する。その際に屋号に選んだのが鶴屋で、これは養育家の屋号を転用したものに他ならない。後に実家の屋号・高島屋に改めることにしたが、養兄の左團次や異母弟の五代目小團次に遠慮して「島」の字を「嶋」に替えている。 右團次は二代目尾上多見蔵によってその資質が見いだされたことが出世の糸口となった。多見蔵は当時ケレンの第一人者で、父も師事したこともある上方歌舞伎の長老的存在だった。多見蔵に認められてからは人気も出、実力もついていった。 維新後は大阪角座で書き出し(劇場で役者番付の看板を出す際、一番右の板に最も人気のある役者をあげ、これを「書き出し」といった)となり、やがて座頭(興行の責任者)を勤るまでになった。その後初代實川延若、中村宗十郎とともに「延宗右」と呼ばれて上方劇壇の中心となり、しばしば上京して上方のケレンや舞踊を東京に紹介、人気を集めていった。 やがて初代中村鴈治郎が人気をとるようになると、さしもの右團次人気も衰え始める。1909年(明治42年)1月、角座で市川斎入を襲名、長男・右之助に二代目右團次を継がせた。1915年(大正4年)1月、浪花座で引退興行。この時72歳の高齢をものともせずに得意の宙乗りを披露して万雷の喝采を贈られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市川右團次 (初代)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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