|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 市 : [し] 1. (n-suf) city ・ 川 : [かわ] 【名詞】 1. river 2. stream ・ 玉 : [たま, だま, ぎょく] 1. (n,n-suf) ball 2. sphere 3. coin
市川 玉太郎(いちかわ たまたろう、生没年不詳)は、日本の俳優、歌舞伎役者、元女形である〔''市川玉太郎''、''jlogos.com'', エア、2013年7月4日閲覧。〕〔''市川玉太郎''、日本映画データベース、2013年7月4日閲覧。〕〔''市川玉太郎''、日本映画情報システム、文化庁、2013年7月4日閲覧。〕。市川幡谷一派に属し、幡谷とともに牧野省三の独立に加わり、阪東妻三郎ら新世代の登場以前のスター俳優として知られる〔大井, p.55.〕〔足立, p.87.〕。 「ポスト市川百々之助」として「市川玉太郎」を名乗り、極めて短期間のみサイレント映画に主演した三代目市川荒太郎は、関西歌舞伎の役者であり、本項の人物とは別人である〔キネマ旬報社, p.53.〕。 == 人物・来歴 == 生年不詳、生地不詳である。 浅草公園六区で旧劇に出演していた市川幡谷(有田松太郎とも)とともに、1922年(大正11年)12月、牧野省三が前年に設立した京都・等持院に撮影所をもつ牧野教育映画製作所に招かれて参加、以降、幡谷(松太郎)の主演作品の二番手として出演し、同社が教育映画から劇場用の剣戟映画にシフトして行く時期を支えた〔〔〔等持院撮影所 、立命館大学、2013年7月4日閲覧。〕。1923年(大正12年)4月、同社がマキノ映画製作所に改組されて以降も幡谷らとともに同社の等持院撮影所に残り、ひきつづき幡谷の二番手の俳優として存在感を示した〔〔大井, p.73.〕。同年6月15日に公開された『お祭佐七』(監督牧野省三)では、女形として女中お鍋を演じた記録が残っている〔〔。同日公開の『水戸黄門』(監督長尾史録)では、幡谷の黄門光圀とともに玉太郎は佐々木助三郎を演じたが、渥美格之亟(渥美格之進)を演じたのが、当時格下の阪東妻三郎であった〔〔〔阪東妻三郎 、日本映画データベース、2013年7月4日閲覧。〕。同年10月17日・10月26日に公開された『鮮血の手型』前後篇(監督沼田紅緑)では、妻三郎が主役に抜擢され、以降、玉太郎は、幡谷や妻三郎の主演映画の助演を固めるようになっていく〔〔。 1924年(大正13年)7月、マキノ等持院撮影所は東亜キネマに吸収され、東亜キネマ等持院撮影所になると、幡谷や妻三郎らとともに継続的に同社に入社するが、同年の秋、帝国キネマ演芸に入社した立石駒吉が各社から、演出家・脚本家・技術者・俳優の引き抜きを開始、とりわけ東亜キネマからは40人規模で俳優が引き抜かれ、このとき幡谷、玉太郎がその筆頭であった〔〔〔石巻, p.348-351.〕。1925年(大正14年)4月30日に公開された『暗雲時代』(監督後藤秋声)以降の出演記録が不明である〔〔。1930年(昭和5年)に登場する映画俳優「市川玉太郎」〔〔は、別人である〔。以降の消息も伝えられていない。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市川玉太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|