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市川 莚十郎(いちかわ えんじゅうろう、1869年 - 没年不詳)は、日本の歌舞伎役者、映画俳優。東京府出身。本名は生田 宮吉(いくた みやきち)。息子は市川左團次 (2代目)。 == 来歴・人物 == 1877年、8歳で歌舞伎の市川左團次 (初代)の門に入り、翌年、市川團十郎 (9代目)の義賊・暁星五郎の狂言に小按摩役で初舞台。その後も師匠と行を共にし、明治座に出演。芸名ははじめ市川 左伊次と名乗っていたが、1904年に市川 栄升と改め、師匠の手を離れて独立、一座を組織して横浜・賑座で旗上げ、1910年頃まで地方巡業を継続した。上京してからは、演技座、寿座、本郷座、東京座、三崎座などの中小劇場に出演し、請われて横浜・喜劇座に2年ほど座頭として奮闘。そのうち師匠・左団次が死去して息子の市川莚升が2代目市川左團次を襲名して外遊中は、明治座、新宿座に勤めて主家の留守を守り、左團次が帰国してから市川 莚十郎と改名した。 映画界に入ったのは1915年11月のことであり、天然色活動写真(略称・天活)の創立間も無くである。その頃は既に尾上松之助が日活にあって、得意のチャンバラで旧劇を撮影し、全国的に人気があった為、天活も旧劇に主力をおき、同じ頃に入社した澤村四郎五郎 (5代目)とコンビの配役で、莚十郎としては、十分に活躍の余地があった。しかし、ドサ回りの田舎役者で、身軽なケレン芝居に独特の活躍を示し、映画的に成功した松之助に対し、名門左団次の元にあって主としてオーソドックスな演技をしてきた莚十郎には、そうした舞台の型から抜ける事は出来なかった。 そして1920年、天活を買収して創立された国際活映に移り、1921年には創立2年目である松竹蒲田撮影所へ一派と共に迎えられ、多くの作品に出演。同年秋、国際活映から四郎五郎が松竹入りしたのと入れ違いに国際活映へ戻ったが、以降の消息は明らかになっていない。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市川莚十郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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