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市村 則紀(いちむら のりお、1952年7月16日 - )は、茨城県常総市出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 茨城県の石下高校では1970年、夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、竜ヶ崎一高に敗れる。東洋大学へ進学し、東都大学リーグ通算37試合に登板し7勝8敗。1973年秋季リーグから3シーズン連続2位となるが優勝には届かなかった。後に西武でチームメイトになる大学同期の松沼博久と、投手の二本柱として活躍した。 卒業後は電電関東に入社。先発型の好投手が多く出場機会に恵まれなかったが、リリーフとして徐々に活躍。1981年の都市対抗ではエース田中幸雄をリリーフして好投、チームの準々決勝進出に貢献する。1982年も日本通運の補強選手として都市対抗に連続出場。1982年のドラフト会議で中日から3位指名を受けた。指名時の年齢はドラフト史上最高年齢の30歳5ヶ月であり、「子連れルーキー」として話題となった〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、50ページ〕。 即戦力の中継ぎ左腕という期待に応え、一年目から一軍に定着。左サイドスローからのスライダーを主としたクセ球が武器で、主に対左打者のワンポイントリリーフとして活躍した。1984年には初勝利をあげるが、段々と登板機会が減る。1986年開幕直前、鈴木康友との交換トレードで西武に移籍。その年中継ぎで37試合に登板し優勝に貢献。その年の珍プレー特集で、リリーフカーを乗り間違えたシーンが珍プレー大賞に輝き有名になった。1988年限りで引退。 1998年にはかながわ・ゆめ国体で軟式野球チームのメンバーとして出場、優勝を果たしている。2000年には、社会人野球の相模原クラブにコーチ兼投手として入団、2002年まで在籍した〔。 現在はソフトボールに舞台を移して活躍している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市村則紀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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