翻訳と辞書
Words near each other
・ 市橋秀夫
・ 市橋秀夫 (社会学者)
・ 市橋秀夫 (精神科医)
・ 市橋秀彦
・ 市橋線
・ 市橋織江
・ 市橋達也
・ 市橋長てる
・ 市橋長利
・ 市橋長勝
市橋長和
・ 市橋長富
・ 市橋長政
・ 市橋長昭
・ 市橋長璉
・ 市橋長発
・ 市橋長輝
・ 市橋長道
・ 市橋駅
・ 市橋駅 (岐阜県)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

市橋長和 : ミニ英和和英辞書
市橋長和[いちはし ながかず]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [し]
  1. (n-suf) city 
: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 
: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 

市橋長和 : ウィキペディア日本語版
市橋長和[いちはし ながかず]
市橋 長和(いちはし ながかず、文政4年5月8日1821年6月7日) - 明治15年(1882年1月17日)は、近江仁正寺藩(西大路藩)の第10代(最後)の藩主。仁正寺藩市橋家11代。
出羽庄内藩主・酒井忠器の四男で、酒井忠発の弟に当たる。子は長寿(次男)、長女鋼子(市橋長道正室)など。養子に市橋長道(実父市橋長賢)。官位は従五位下。正五位。正四位。壱岐守。下総守。幼名は鋼三郎。はじめ長和と名乗っていたが、後に長義と改名する。
天保14年(1843年)5月16日、先代藩主市橋長富の養子となる。養父長冨の男子は早世していた。弘化元年(1844年)8月15日、将軍・徳川家慶に拝謁した。同年10月7日、養父長富の隠居により、家督を相続した。同年12月16日、従五位下下総守に叙任した。後に壱岐守に改めた。嘉永6年(1853年)、ペリー来航から国内が政情不安に陥ると、軍備の増強の必要性を感じ取って火薬の製造を行なっている。文久2年(1862年)4月28日、仁正寺藩を西大路藩と改名した。
慶応3年(1867年)12月22日、上洛し、新政府を支持する姿勢を示した。明治元年(1868年)1月27日、新政府に敵対姿勢を示す武蔵川越藩主・松平康英の近江国内の領地の支配を命じられる。同年2月20日、藩兵の少なさを理由として、東山道鎮撫総督府軍の食料補給の任務の辞退を願うものの、認められなかった。明治元年(1868年)の東京奠都では、明治天皇の守護と京都警備に務めた。明治2年(1869年)4月22日、版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官されて東京へ移った。明治15年(1882年)正月17日、62歳で死去した。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「市橋長和」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.