翻訳と辞書
Words near each other
・ 帆船模型
・ 帆苅伸子
・ 帆装
・ 帆走
・ 帆足まり子
・ 帆足万里
・ 帆足京
・ 帆足和幸
・ 帆足圭吾
・ 帆足新一
帆足杏雨
・ 帆足桃子
・ 帆足正音
・ 帆足準三
・ 帆足由美
・ 帆足萬里
・ 帆足計
・ 帆足計事件
・ 帆足長秋
・ 帆風 (駆逐艦)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

帆足杏雨 : ミニ英和和英辞書
帆足杏雨[ほあし きょうう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほ]
 【名詞】 1. sail 
: [あし]
 【名詞】 1. foot 2. pace 3. gait 4. leg 
: [あんず]
 【名詞】 1. (gen) (food) apricot 2. apricot tree 
: [あめ]
 【名詞】 1. rain 

帆足杏雨 : ウィキペディア日本語版
帆足杏雨[ほあし きょうう]

帆足杏雨(ほあし きょうう、文化7年4月15日1810年5月17日) - 明治17年(1884年6月9日)は、幕末から明治時代に活躍した文人画家である。田能村竹田の高弟。日本最後期の文人画家のひとり。
幼名は熊太郎のち庸平、は遠、を致大、杏雨のほか鶴城・聴秋・半農などとした。豊後の人。
== 略伝 ==
豊後国大分郡戸次村(現在の大分県大分市)の庄屋の四男として生まれる。帆足家は江戸期を通じて臼杵藩戸次市組の大庄屋を務めた領内でも有数の豪農で、庄屋としての公務の傍ら造酒業で家産を成した。父統度と長兄は俳諧をたしなみ書画の収蔵家で知られ、居宅に田能村竹田が度々出入していた。杏雨はこのような芸文的な雰囲気の中で育ち、15歳の時に竹田の画塾竹田荘に入門。経学広瀬淡窓咸宜園の門戸を叩き、帆足万里にも学んだ。
19歳のとき同門の高橋草坪大坂に赴き、翌年には京都に上洛。「富春館」を構え、師の田能村竹田のほか、頼山陽篠崎小竹浦上春琴らと交遊。天保元年(1830年)、21歳のとき竹田に伴って豊前雲華院大含を訪ねて墨竹図を指南された。翌年3月頃に京都の医師小石元瑞の用拙居に寓居。貫名海屋岡田半江中林竹洞らと出会う。7月にはいったん帰国。翌年6月、大坂で師竹田が死没。天保9年(1838年)、九州各地を遊歴し、長崎では鉄翁祖門木下逸雲・来舶清人の陳逸舟らと画論を交えた。
杏雨は表立って国事に奔走することはなかったが、杏雨の甥に当たる勤王の志士で後に初代岩手県知事となる島惟精美濃大垣藩家老小原鉄心など尊皇攘夷思想を持つ人物と交流した。70歳の冬に右目を失明するも画作を続け75歳で没した。門弟に小栗布岳がいる。杏雨の影響を受けた画人は多く、大分の文人画(豊後南画)の盛況に貢献した。
竹田の画風を徹底的に倣い、その上で元末四大家黄公望唐寅浙派の作品に師法し、50歳以降に雅意に満ちた独自の様式を形成した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「帆足杏雨」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.