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帖佐 宗光(ちょうさ むねみつ、永禄3年(1560年) - 元和2年3月10日(1616年4月25日))は戦国時代から江戸時代前期にかけての薩摩国島津氏家臣。通称は彦左衛門。別名は宗辰。父は帖佐宗治。子は帖佐宗康。 ==生涯== 帖佐氏は平姓平田氏の一族。父の宗治は島津義弘の足軽大将で、軍奉行なども務めた。宗光も足軽大将として義弘に仕え、天正10年(1582年)肥前国の田尻鑑種が龍造寺隆信に対して謀反し、島津家に助勢を頼んだ際には、義弘の命で田尻但馬らと共に数ヶ月ほど田尻氏の城に入った。 義弘の豊後国入りにも従い、島津家久の元へ義弘からの使者として赴いた際は、家久に留め置かれその軍奉行を務めると共に、天正14年(1586年)12月9日の豊前国緒方城攻めの際に首級を2つ、同月11日の豊臣方との合戦でも首級5つを討ち取った。翌年の根白坂の戦いで島津勢が敗戦した際、家久が討ち死にする心算であると聞き及んだ義弘より、それを制止するための使者として遣わされたが、家久がそれを聞き届けず、宗光が切腹を覚悟で諫言したことでようやく家久もこれに応じた。 天正16年(1588年)に島津家が豊臣秀吉より播磨国1万石を拝領した際は、市来掃部兵衛と共にその代官を仰せ付かり数年ほど伏見に住んだ。天正18年(1590年)、義弘次男の久保が小田原征伐に出陣した際はこれに同行、文禄の役にも久保の供をし、兵糧奉行ならびに普請方・玉薬賦方にも任じられている。 朝鮮より帰国後は義弘三男の忠恒の供として伏見に住み、忠恒が伊集院忠棟を殺害した際は、その報告を薩摩国の島津義久へ報告する隠密の使者となった。また忠恒に従い庄内の乱にも参加する一方、その合戦の様子を伏見の義弘へ伝える報告役も担ったが、そのまま伏見に留め置かれ関ヶ原の戦いに参加、薩摩国へ逃れる義弘の傍らにあってその供をし、この功により100石を賜った。 元和2年(1616年)に死去した。享年57。法名は「竹隠栄修居士」、薩摩国の南林寺に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「帖佐宗光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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