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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 帯 : [おび, たい] 1. (n-suf) band (e.g., conduction, valence)
帯留(おびどめ)とは、女性が帯締めに通す飾り物の装身具。「帯止」という漢字が使われることもある。京都の花柳界では、舞妓用の帯留を「ぽっちり」と呼ぶ〔相原恭子『京都舞妓と芸妓の奥座敷(文藝春秋、平13年)』179頁、相原恭子『舞妓さんマナー集』(山海堂、2007年)108頁、他、多数参照。〕。 == 帯留の発生と形態の変遷 == 帯留の歴史は、江戸時代後期、文化・文政年間(1804年 - 1829年)に、始まる〔露木宏「近代装身具の発生とその変遷」(『ジュエリーの歩み100年((美術出版社、2005年))』所収)24頁、佐藤泰子「帯留の歴史探訪」(『伝えたい日本の美しいもの 貴道裕子の帯留((スーパーエディション、2001年)))』所収)4-5頁、丸山伸彦「帯留誕生物語」(池田重子『日本のおしゃれ 帯留((アシェット婦人画報社、2005年))』所収)6頁、他、多数参照。〕。 帯留という言葉の初出は、1822年(文政5年)〔遠藤武「近世帯留考」(『遠藤武著作集第1巻服飾編((文化出版局、昭和60年))』所収)205-206頁、佐藤泰子「帯留の歴史探訪」(『伝えたい日本の美しいもの 貴道裕子の帯留((スーパーエディション、2001年)))』所収)5頁、参照。〕。帯留は、当時、胴締や上締とも呼ばれ、帯留の原形と帯締めの原形の、その双方を指し、腰帯・しごき帯・布を仕立てた「丸ぐけ」「平ぐけ」と呼ばれる紐・真田紐・組紐を結ぶものと、留め金具式のものとがあった〔遠藤武「近世帯留考」(『遠藤武著作集第1巻服飾編((文化出版局、昭和60年))』所収)206-209、210頁、佐藤泰子「帯留の歴史探訪」(『伝えたい日本の美しいもの 貴道裕子の帯留((スーパーエディション、2001年))』所収)5頁、北村哲郎「帯締め」(『和装小物のお洒落((世界文化社、1994年))』所収)24頁、北村哲郎『日本服飾小辞典(源流社、昭和63年)』22頁、参照。また、佐藤泰子「帯留の歴史探訪」(『伝えたい日本の美しいもの 貴道裕子の帯留((スーパーエディション、2001年))』所収)6頁によると、1898年(明治31年)になっても、現在の帯留の原形と現在の帯締めを総称して帯留と呼んでいるという。〕。紐は現在の帯締めへと発展し、留め金具は、現在の帯留へと発展していった〔遠藤武「近世帯留考」(『遠藤武著作集第1巻服飾編((文化出版局、昭和60年))』所収)204頁、参照。〕。 現在の帯留へと発展していく、留め金具式の帯留は、現在の帯留とは形状が異なっていた。 それは、装飾性もあるが、実用性が高い、帯がほどけないようにする為の「帯の固定金具」であり、「紐を通すのではなく、紐の両端に表金具と裏金具を取り付け、合わせて引っ掛ける構造」だった〔露木宏「近代装身具の発生とその変遷」(『ジュエリーの歩み100年((美術出版社、2005年))』所収)24-25頁。遠藤武「近世帯留考」(『遠藤武著作集第1巻服飾編((文化出版局、昭和60年))』所収)204、208頁、佐藤泰子「帯留の歴史探訪」(『伝えたい日本の美しいもの 貴道裕子の帯留((スーパーエディション、2001年))』所収)5頁、『きもの文化検定公式教本I きものの基本(アシェット婦人画報社、2008年)』145頁、参照。〕。当初は、主に男性が用い、女性は老女が用いていたが、女性にも広まっていき、男性から女性へと移行していった〔遠藤武「近世帯留考」(『遠藤武著作集第1巻服飾編((文化出版局、昭和60年))』所収)204-205、210-211頁、露木宏「近代装身具の発生とその変遷」(『ジュエリーの歩み100年((美術出版社、2005年))』所収)24頁、北村哲郎「帯留め」(『和装小物のお洒落((世界文化社、1994年))』所収)64頁、北村哲郎『日本服飾小辞典(源流社、昭和63年)』22頁、参照。〕。 幕末(1853年 - 1869年)から明治初期にかけては、芸者衆の間で流行した〔丸山伸彦「帯留誕生物語」(池田重子『日本のおしゃれ 帯留((アシェット婦人画報社、2005年))』所収)6頁。〕。芸者衆は、客の男性の、刀の小柄・目貫・柄頭などの刀装具や、煙草入れなどを「契りの証しとして」帯留に作り替えて用いた〔丸山伸彦「帯留誕生物語」(池田重子『日本のおしゃれ 帯留((アシェット婦人画報社、2005年))』所収)6-7頁。〕ものと思われる。 明治に入ってからは「パチン留め」と呼ばれた〔露木宏「近代装身具の発生とその変遷」(『ジュエリーの歩み100年((美術出版社、2005年))』所収)24-25頁。遠藤武「近世帯留考」(『遠藤武著作集第1巻服飾編((文化出版局、昭和60年))』所収)204、208頁、参照。〕。1876年(明治9年)に廃刀令がでると、不用になった刀装具を転用するという形で、帯留の使用が盛んになった〔『きものに強くなる(世界文化社、1991年)』194頁、『新版きものに強くなる(世界文化社、2001年)』218頁、北村哲郎「帯留め」(『和装小物のお洒落((世界文化社、1994年))』所収)64頁、北村哲郎『日本服飾小辞典(源流社、昭和63年)』22頁、丸山伸彦「帯留誕生物語」(池田重子『日本のおしゃれ 帯留((アシェット婦人画報社、2005年))』所収)6頁、参照。〕。廃刀令で失職した、刀装具を加工していた職人は、帯留め職人となった〔『きものに強くなる(世界文化社、1991年)』194頁、『新版きものに強くなる(世界文化社、2001年)』218頁、露木宏「近代装身具の発生とその変遷」(『ジュエリーの歩み100年((美術出版社、2005年))』所収)10、25、49頁、他、多数参照。〕。以降、帯留は、「一時は、帯締めには必ず帯留めをするもの、というくらい」大流行する〔『新版きものに強くなる(世界文化社、2001年)』218頁。酒井美意子『きものの常識(主婦と生活社、昭和47年)』127頁、他、参照。〕。刀装具などを作り替えた、留め金具式(パチン式)の古い帯留が、現在も残っている〔露木宏「近代装身具の発生とその変遷」(『ジュエリーの歩み100年((美術出版社、2005年))』所収)26頁、参照。〕。 1892年(明治25年)頃から、現在のような紐に通す形式の帯留が現れて流行し、「パチン留め」は徐々に廃れ、帯留は、実用性の高い帯の固定金具から、完全なる装身具へと変わっていった〔露木宏「近代装身具の発生とその変遷」(『ジュエリーの歩み100年((美術出版社、2005年))』所収)26頁、北村哲郎「帯留め」(『和装小物のお洒落((世界文化社、1994年))』所収)64頁、関昭郎「明治時代」(『日本装身具史((美術出版社、2008年))』所収)120頁、参照。〕。 装飾を全く廃した実用性そのもののフック式の留め金具と、装身具そのものの紐通し式帯留が併用されることもあったが(この場合、実用性そのもののフック式留め金具は、後ろに隠して使われる〔『きものに強くなる(世界文化社、1991年)』195頁、酒井美意子『皇室に学ぶマナー(ダイワアート、1988)』56頁、酒井美意子『ロイヤルマナー 皇室・伝統の礼儀と作法(大和書房、2002年)』56頁、参照。〕。)、現在ではあまり見かけず〔『きものに強くなる(世界文化社、1991年)』195頁。〕、紐通し式の帯留のみ用いるのを主流とする。 現在の帯留には、主流の紐を通す形式の他に、帯締めの上から金具で押さえるクリップ式・開閉式の帯留があり、紐通し式に比べて、厚みのある紐に使え、帯締めを締めた後にも使えるという利点がある〔『和装小物のお洒落(世界文化社、1994年)』71頁、君野倫子『きもの便利帳(河出書房新社、2007年)』52頁、他、参照。〕。どちらも、金具を使ったあとに、金具の間に紐が通り、留め金具式帯留とは異なって、純然たる装身具である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「帯留」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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