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帰義軍 : ミニ英和和英辞書
帰義軍[きぎぐん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
義軍 : [ぎぐん]
 (n) righteous army
: [ぐん]
  1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops 

帰義軍 : ウィキペディア日本語版
帰義軍[きぎぐん]

帰義軍(きぎぐん)(曹議金が政権を取る前までは「金山国」)は、朝末年、五代十国から朝初年に至まで、河西回廊敦煌を中心としてできた政権である。
帰義軍は、張議潮吐蕃に反抗して、挙兵して建てた政権である。一度、河西地区の十一州を統治したが、後に領土が減り、瓜州沙州の二州に割拠し、張氏、曹氏の両氏によって統治された。
==歴史==
840年回鶻ウイグル)汗国が滅亡すると、ウイグルの人々が河西回廊に流入してきた〔敦煌漢文写本P.3451, 『張淮深変文』〕。
大中2年(848年)、張議潮は、瓜、沙の二州を収復し、3年には、甘州粛州の二州を、4年には伊州を収復し、咸通2年(861年)には、涼州を収復した。その様子は、「西は伊吾を尽くし、東は、霊武に接す。四千余里の地を得、戸口は、百万の家。六郡の山河、宛然として帰す」と記された。
節度押衙は、帰義軍政権の中堅の支柱であり、中核の勢力であった。節度使が押衙を通るとき、各個の階層の官員はみな帰義軍の系統に組み込まれ、帰義軍政権の統治の基盤を拡大させた。
咸通11年(870年)9月、ウイグルが侵入してきた。西桐海(現在の敦煌西南のアクサイ・カザフ族自治県の蘇干湖)で、帰義軍節度使張淮深がこれを破った。
咸通16年(875年)正月、また、張淮深のために破られた。
唐末、帰義軍節度使張承奉は、西漢金山国を建国し、自ら「金山白衣天子」と称した。
咸平5年(1002年)、帰義軍は再度甘州ウイグル王国と戦争を起こしたが、帰義軍内部に兵変が発生し、曹延禄とその弟曹延瑞は、族人の曹宗寿に迫られ自殺に追い込まれた。曹宗寿は、帰義軍の政権を掌握した。は、覊縻政策をもって対峙したので、曹宗寿は、帰義軍節度使でありえた。帰義軍は、また、朝と通使を開始した。
景徳3年(1006年)、カラハン朝ホータン王国を滅ぼした。寺院僧侶達はこのことを聞いて、大いに恐れて、経典などを洞窟に隠した。これが、今日の「敦煌文書」である。
大中祥符7年(1014年)、曹宗寿が死亡し、その子供の曹賢順が即位した。
天禧4年(1020年)と天聖元年(1023年)、曹賢順は、二度宋朝に朝貢している。
景祐3年(1035年)、帰義軍政権は、李元昊により滅ぼされ、曹氏八代目の帰義軍節度使曹賢順は、千騎の部下と共に西夏に投降した〔『遼史』「本紀」第十六、「聖宗紀」第七、『西夏紀』卷五〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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