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常盤津節 : ミニ英和和英辞書
常盤津節[ときわ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とわ, じょう]
  1. (adj-na,n) eternity 2. perpetuity 3. immortality
: [ばん, さら]
  1. (n,n-suf) record 2. tray 3. shallow bowl 
: [せつ, ぶし]
  1. (n-suf) tune 2. tone 3. knot 4. knob 5. point

常盤津節 ( リダイレクト:常磐津節 ) : ウィキペディア日本語版
常磐津節[ときわづぶし]
常磐津節(ときわづぶし/ときわずぶし)は、三味線音楽の一種。浄瑠璃を語る太夫と、三味線弾きで構成される。日本の重要無形文化財(総合指定)。初代常磐津文字太夫1709年-1781年)が、延享4年 (1747年) に豊後節より創設した。語り物浄瑠璃の一つで、全盛期を迎えていた江戸歌舞伎とともに発展した。語りと歌との均衡が取れ、整然とまとめられた旋律「オトシ」と呼ばれる独自の技法を持ち、この特徴から常磐津節は劇付随音楽として歌舞伎など舞踊劇になくてはならない音曲といわれる。三味線方は、中棹の紅木三味線と象牙の(ばち)を用い、太夫の語りに合わせた絶妙な間合いで相方をつとめる。創流当初は佐々木市蔵などの佐々木姓、鳥羽屋里長などの鳥羽姓が見受けられるが、江戸時代を通して明治期に至るまで岸澤式佐を家元とする岸澤派が主流となる(現在は常磐津姓の三味線弾きが多数を占める)。また、歌舞伎出語りの時には、柿色の肩衣、蛸足と呼ばれる独自の見台を用いるのが特色である。現在では歌舞伎伴奏のほか、日本舞踊の伴奏音楽として、また、素浄瑠璃の演奏会などで頻繁に演奏されている。定紋は角木瓜、替紋は松皮菱である。

== 歴史 ==

;享保~延享~寛政期
:京都の生まれで初代都一中に学んだ都国太夫半中は、享保8年(1723)に師が没すると都路国太夫と改名して独立。劇的というよりは情緒的な芸風であったという。享保15年には、さらに宮古路豊後と改名し豊後節を創始。17年からは高弟である宮古路文字太夫を伴い名古屋に進出する。享保19年正月、名古屋で実際にあった心中事件を題材とした出世作「睦月連理椿」で大好評を得る。同年、高弟文字太夫を名古屋に残してさらに江戸に進出する。播磨座で「おさん伊八道行」を演じ好評を受け、掾号受領して宮古路豊後掾橘盛村となり、大劇場である江戸中村座に進出する。当時は豊後掾の髪形や長羽織を真似る「文金風」が一世風靡したが、享保7年から男女相対死(心中)が法令で禁じられており、煽情的とされ心中と結び付けられた豊後節は弾圧を受けてしまう。元文元年(1736)には、文字太夫出演の市村座「小夜中浅間嶽」に対し江戸北町奉行が興行中止を命令。元文3年に江戸での舞台を文字太夫ほか弟子にまかせ、豊後掾は西に戻り京阪の劇場で活躍する。元文4年には、浄瑠璃太夫の名を出すこと、稽古場の看板をあげること、文金風を真似ること、などが禁止され、特に豊後節の浄瑠璃語りが非常に厳しい弾圧を受ける。
:元文5年に豊後掾が病死すると、延享2年(1745)に宮古路加賀太夫が脱退(新内節)、宮古路園八(宮園節)なども脱退し分派活動が起こる。高弟である宮古路文字太夫も、延享4年(1747)に関東文字太夫と改名したが、北町奉行により禁止され、その帰り際に住居がある日本橋檜物町に常盤橋を渡って戻る途中、師である豊後掾の本名「石津左司馬」の津を取り常盤津としたという説が有力である。後日、「皿」では割れてしまい縁起が良くないので「石」に変更され、現在では「常磐津」と明記するのが正しい。寛延元年(1748)に豊後節から共にしていた弟分の初代常磐津小文字太夫が常磐津を抜け、のちの清元節の前身である富本節を創設。常磐津節は歌舞伎との関係を密接にし、扇情的だった豊後節より芸質の向上をめざし、義太夫節を取り入れ豪快かつ勇壮さをもちながら品をよくし、舞踊との結合に相応しく明確な曲風に移り変わった(例:蜘蛛糸梓弦)。この時代の三味線は初代佐々木市蔵、二代目岸澤古式部などが勤めたが、明和5年(1768)に佐々木市蔵が亡くなると、初代文字太夫がタテ三味線に岸澤古式部を起用したことから佐々木派の三味線弾きから不満が起こり、常磐津志妻太夫、造酒太夫らが脱退し、それぞれ豊名賀派、富士岡派として一派を形成したが、前者は二代で後者は一代で消滅した。
:天明元年(1781)に初代常磐津文字太夫が没すると、初代兼太夫が初代文字太夫未亡人から相続し二代目文字太夫を襲名。二代目文字太夫は二代目岸澤式佐、初代鳥羽屋里長などの三味線方と共に大いに活躍し、紅葉傘糸錦色木(善知鳥・安永7年)、積恋雪関扉(関の扉・天明4年)、四天王大江山入(古山姥・天明8年)、戻駕色相肩(戻駕・天明8年)、其扇屋浮名恋風(吉田屋・寛政2年)など、時代物世話物ともに現存する曲を初演し、常磐津節の基礎を整備する。二代目文字太夫の死後、遺児林之助はわずか8歳で二代目小文字太夫を襲名し若くして家元を継いだが、跡目争いで敗れ常磐津を破門された二代目兼太夫(吾妻国太夫)が興した一派(吾妻派)に押されていた。その窮地を補佐したのが家元派の三代目兼太夫で、彼により浄瑠璃の語り口に洗練が加えられ、これまでの古曲とは違った、当世流で瀟洒な味わいが常磐津に生まれた。
;文化文政期
:家元派の人々に支えられた二代目小文字太夫は、文化4年に市村座でタテ語りとして初舞台を勤めた。文化5年に元服し七代目市川團十郎の弟分となるが、病気等による休演が多かった。文政7年に三代目文字太夫を襲名するが、同年7月には病気の為に夭折する。源太(文化5年)、三つ人形(文政元年)などを初演した。この時、江戸歌舞伎の繁栄はいよいよ頂点に達し、舞踊においても変化舞踊と呼ばれる新たな分野が登場した。常磐津はこの動きに敏感に反応し、「景清」「角兵衛」などの佳品を生むと同時に、長唄や富本節などとも積極的に掛合を行うようになり、芸質の高まりを見せることになる。
;幕末期
:家元を失った流派は、後継者として歌舞伎役者の市川男熊を迎えた(初代文字太夫の次女カメが二代目市川門之助に嫁ぎ生まれた初代市川男女蔵の息子であり、初代文字太夫の曾孫にあたる)。文政3年に江戸三座筆頭に名前を出し、河原崎座「老松」のタテに座り、尾上菊五郎が名弘めの口上を述べ、三代目小文字太夫として初舞台を勤める。文政6年の元服式では七代目市川團十郎が烏帽子親となり、天保8年に四代目文字太夫を襲名。嘉永3年には嵯峨御所から受領して「初代常磐津豊後大掾」の掾号を得る。角兵衛(文政11年)、お三輪(天保4年)、将門(天保7年)、靭猿(天保9年)、京人形(弘化4年)、夕月(弘化4年)、新山姥(嘉永元年)、勢獅子(嘉永4年)など、現行する多くの名作を五代目岸澤式佐(1806年-1867年、古式部)と共に作り、江戸三座で大いに人気を博した。しかし、全段常磐津出語りの「三世相錦繡文章(安政4年)」に端を発し、功名争いにより岸澤派は分派してしまう。五代目式佐の叔父が十一代目守田勘弥(四代目坂東三津五郎)だった縁もあり、分離後の岸澤派は守田座への出勤が多かった。
;明治期
:四代目文字太夫には跡取りがおらず、四代目小文字太夫(のちの六代目兼太夫)、五代目小文字太夫(桐生小文字)と二人の養子をとったが故あって家元家から離縁。天保4年に四代目文字太夫に待望の実子が生まれる(佐六文中)。慶応元年に六代目常磐津小文字太夫を襲名するが、明治5年に病没。この時代は、三代目若太夫の興した菊菱派が初代和佐太夫によって継承され一派を形成し、常磐津岸澤分離の期間は常磐津では三味線方を、岸澤では太夫方をそれぞれつくり、多くの太夫三味線弾きが移籍・移動した混乱期であった。佐六文中の未亡人ツネが家元名義を預かっていたところ、十二代目守田勘弥が世話人となって二代目常磐津松尾太夫が養子入りする。7年間で70の歌舞伎興行のタテ語りを、六代目岸澤式佐、初代常磐津文字兵衛とともに勤めた。明治15年には守田勘弥河竹黙阿弥の立会いのもと、岸澤派との和解の手打ちを行い、明治12年に七代目小文字太夫を襲名。和解記念曲として「松島」が初演される。しかし、義母ツネと不和になり家元家を離れたあとは常磐津林中と改名し、二代目岸澤文字兵衛とともに、約10年間で80以上の歌舞伎興行に出勤する。七代目小文字太夫が去り再び岸澤派と分裂をした家元家は、再び家元名義をツネが預かったが、常磐津節全体の永続と派内融和を訴えた守田勘弥岸澤式佐らの推薦により、初代浪花太夫が八代目小文字太夫として家元に就任。明治25年には名弘めの曲として「三保の松」を開曲。13年間で126興行の歌舞伎興行に出勤し、明治35年に六代目常磐津文字太夫を襲名。大正8年までの17年間に67興行の興行に、七代目岸澤式佐、二代目常磐津文字兵衛と共に出勤。明治37年には林中と和解し歌舞伎座「積恋雪関扉」の上下を分担する。七代目小文字太夫(林中)の代表曲には、「釣女」「松島」「白糸」「羽衣」、六代目文字太夫の代表曲には、「戻橋」「女鳴神」「大森彦七」「竹生島」「楠公」などがある。この時代は能楽狂言)から様々な演目が輸入され、能取物松羽目物と呼ばれる作品が多かったのが特徴と言える。
;大正・昭和期
:大正15年に、六代目文字太夫は息子に七代目として文字太夫を譲り、二代目常磐津豊後大掾を襲名。親子で開曲された代表曲に「佐倉」「権八」などがある。昭和2年には第一期常磐津協会が発足し、七代目文字太夫を会長に置き、二代目常磐津豊後大掾と六代目岸澤古式部とがそれぞれ相談役として座り、常磐津岸澤の分離は完全におさまる。昭和17年には、関西に発展を求めた七代目文字太夫により、関西常磐津協会が発足。この時代の歌舞伎興行は、三代目松尾太夫、三代目文字兵衛が数多く出勤していた。三代目文字兵衛は近代の常磐津、ひいては邦楽界を代表する作曲家であり、代表曲として「独楽」「椀久」「松の名所」などがある。三代目松尾太夫のあとは、三東勢太夫、千東勢太夫の兄弟へと代替わりし、芝居小屋から劇場への大型化に伴い、従来よりも調子が高く華やかな芸風の千東勢太夫が三代目文字兵衛と組み出勤する。その後、千東勢太夫は菊菱派の流れをくむ菊三郎と組み、この二人は弟子たちと共に多くの歌舞伎興行を勤め、数多の音源をレコードに残している。昭和28年に三代目文字兵衛が日本芸術院に選出され、昭和30年には重要無形文化財の個人指定(人間国宝)を常磐津で初めて受ける。次いで昭和41年には常磐津菊三郎が人間国宝の認定を受ける。菊三郎の代表曲には「菊の盃」「菊の栄」などがある。昭和56年には常磐津節保存会が重要無形文化財の総合指定を受けている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「常磐津節」の詳細全文を読む




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