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常盤御前(ときわごぜん、保延4年(1138年) - 没年不詳)は平安時代末期の女性で、源義朝の側室 。 阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)の母。後に一条長成との間に一条能成をもうける。字は常葉とも〔『公卿補任』健保六年十二月九日藤能成項においては、能成の母の欄には次のように記され母の本名や母の父親の名前は不詳である。「母半物云々(伊予守義顕母也)」。なお伊予守義顕とは朝廷において改名させられた源義経のことを指す。また誰に仕える「半物」であるかも記されていない。〕。 == 生涯 == 『平治物語』等の軍記物や『尊卑分脈』によれば、近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女であったとされている。 源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。後に一条長成との間に一条能成(長寛2年(1163年)生)や女子(生誕時期不明)を産んだ〔『尊卑分脈』『公卿補任』藤原能成項〕。 義朝の死から一条長成に嫁ぐまでの消息は『平治物語』『義経記』等に記されているが、事実がどのようなものであったかは不明である。軍記物語の『平治物語』『平家物語』などによれば、平清盛に請われて妾となり、一女(廊御方)を産んだとされるが、史実としては確認されていない。 やがて治承・寿永の乱が勃発し、義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。義経が岩倉にいると証言したので捜索したが、すでに逃げた後で房主僧のみを捕らえたとある(『玉葉』)。『吾妻鏡』には同月13日に常盤と妹を鎌倉へ護送するかどうか問い合わせている記録があるが、送られた形跡はないので釈放されたものとみられる。常盤に関する記録はこれが最後である。 常盤について、その後の詳細は不明である。侍女と共に義経を追いかけたという伝承もあり、常盤の墓とされるものは岐阜県関ケ原町、群馬県前橋市、鹿児島県郡山町(現鹿児島市)、埼玉県飯能市と各所にある。さらに、飯能市に隣接する東京都青梅市成木の最奥部、常盤の地には常盤が人目を避けて一時隠れ住まわされたという伝承があり、地名は常盤御前に因むと伝えられる。 また、かつて東京・渋谷にあった松の老木、「常磐松」には、常盤が植えたことに由来するとの説がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「常盤御前」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tokiwa Gozen 」があります。 スポンサード リンク
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