|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 常 : [とわ, じょう] 1. (adj-na,n) eternity 2. perpetuity 3. immortality ・ 陸 : [りく, ろく] (adj-na,n) six (used in legal documents) ・ 丸 : [まる] 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names ・ 丸事 : [まるごと] 1. (adv) in its entirety 2. whole 3. wholly ・ 事 : [こと] 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience ・ 事件 : [じけん] 【名詞】 1. event 2. affair 3. incident 4. case 5. plot 6. trouble 7. scandal ・ 件 : [くだん, けん] 【名詞】 1. matter 2. case 3. item
常陸丸事件(ひたちまるじけん)とは、日露戦争中の1904年(明治37年)6月15日に玄界灘を西航中の、陸軍徴傭運送船3隻がロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊(ウラジオ艦隊)所属の3隻の装甲巡洋艦、「」、「リューリク」および「グロモボーイ」によって相次いで攻撃され、降伏拒否などにより撃沈破された事件である。特に、陸軍徴傭運送船「常陸丸」(日本郵船、6,172トン)の喪失は日本の国内世論を憤激させ、連合艦隊、特に日本海の海上警備を担当していた上村彦之丞中将の第二艦隊に対して非難の声が向けられることとなり、第二艦隊は事件から二か月後の8月14日に起こった蔚山沖海戦でウラジオ艦隊を事実上壊滅させるまでの間、強い批判にさらされた。 本項では、事件当日の6月15日とそれにかかわる事項に極力絞って記述する。ウラジオストク巡洋艦隊のその他の行動については当該項目を参照されたい。 ==背景== ロシア帝国海軍の基本戦略の方針は、19世紀半ばに海軍統監に就任して近代化に辣腕をふるったロシア大公コンスタンチン・ニコラエヴィチによって、フランス海軍に範をとった沿岸防御を主とする艦隊の整備と通商破壊向けの艦艇の整備が進められた〔#半藤 pp.84-85〕。事件の一方の主役、日本側から見れば敵役の「リューリク」、「ロシア」および「グロモボーイ」といった装甲巡洋艦は、帆走用の装備を備えて砲塔配置も中心線上ではなく片舷に配されており、艦隊戦ではなく通商破壊を念頭に置いた艦艇でもあった〔#半藤 p.85〕。ところが、ロシア帝国海軍においてもアメリカ海軍の軍人アルフレッド・セイヤー・マハンの『海上権力史論』に感化された世代が徐々に増えつつあり、コンスタンチン以来の思想とマハン流の思想は決して相容れなかった〔。コンスタンチン派にとって掩護射撃となったのはステパン・マカロフ少将が著した『海軍戦術論』で、敵を正面突破ではなく急所を突き続けることによって敵を弱体化させる、というマカロフの主張は、コンスタンチン派が信奉する伝統戦法に十分合致しうるものであった〔。 日清戦争後の三国干渉を経て遼東半島南端の旅順と大連を租借したロシアは艦隊を配備し、次いで太平洋戦隊長オスカル・スタルク少将の命でウラジオストクに巡洋艦4隻を配して使命を「敵交通路の遮断」、「敵国沿岸への脅威」、「敵戦力の分散」と位置付けた〔#半藤 p.84,86〕。1903年6月7日、ウラジオ艦隊は旅順にて公式に編成された。1904年2月8日に旅順口攻撃によって日露戦争が始まるとウラジオ艦隊はただちに蠢動を開始し、旅順口攻撃翌日の2月9日から4月26日までの間に、津軽海峡西口方面と元山方面で三度の通商破壊行動に撃って出て輸送船「金州丸」(日本郵船、3,967トン)〔#郵船100年史 p.95〕など各種船舶を撃沈破あるいは拿捕した。対する日本海軍は当初、第三艦隊(片岡七郎中将)を対馬海峡警備にあたらせていたが、ウラジオ艦隊の猛威に驚いて第二艦隊を追加配備した〔#半藤 p.86〕。しかし、第二艦隊の追加配備後、ウラジオ艦隊の行動は抑制された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「常陸丸事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|