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常陸国府跡(ひたちこくふあと)は、茨城県石岡市にある律令制下の地方行政機関の施設跡。常陸国の国府の遺構にあたる。国の史跡に指定されている。 == 概要 == 石岡市中心部、石岡台地上に位置する常陸国の国府の遺構である。この国府は、初代常陸国司の百済王遠宝の頃に計画が始まり、9代目の百済敬福、10代目の佐伯今毛人の頃までには完成したと推測されている。 国府内では国衙を西端に配置して条坊制が敷かれ、北に常陸国分寺()や常陸国分尼寺()、南に総社(現・常陸國總社宮、)が配置された。国衙は方2町で内部に国庁を置き、周囲には土塁と堀が巡らされ、東西南北には門が設けられたとされる。また国府の周囲は北を国分寺境界、南をビンズル谷津、東を山王川低地、西を恋瀬川低地で限ったと推測され、周囲に土塁が、東西南北には門が設けられたとされる。なお、国分尼寺跡のさらに北方には、関連遺跡として工房跡と見られる鹿の子遺跡()が確認されている。 記録の上では、平安時代中期の『和名抄』において「常陸国国府在茨城郡、行程上三十日、下十五日」と記されている。天慶2年(939年)には平将門によって焼かれている。また、延応元年(1239年)の常陸国留守所下文では「古国府西殿本畠」の記載が、正安2年(1300年)の常陸国庁宣(総社文書)には「留守所御館跡南半分」の記載が見えることから、中世の国府は古代とは別の位置・形態であったとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「常陸国府跡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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