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常陸嶽 理市(ひたちだけ りいち、1899年4月6日 - 1958年11月5日)は、広島県深安郡神辺町(現:広島県福山市)出身の元大相撲力士。本名は藤田 理一(ふじた りいち)。 == 来歴 == 1899年4月6日に広島県深安郡神辺町(現:広島県福山市)で生まれる。旧制福山中学校では後に弁護士となる兄と共に秀才として評判で、運動神経も抜群だった。中学校では野球部に所属していたが、4年生の際に大相撲の巡業が近所へ来た際に見学に行ったが、両親の猛反対を押し切って家出同然で出羽海部屋へ入門した。そのため、中学校は特別に卒業扱いにさせてもらった。 1917年5月場所で初土俵を踏む。十両まで5年を要したが無類の稽古熱心で、稽古はほぼ毎日、日の出前から行うほどだった。そのかいがあって1923年1月場所で十両へ昇進すると、1924年5月場所で新入幕を果たした。時に左四つでの上手投げや外掛け・内掛けも見せたが、取り口の大半は上からの突っ張りだけの単調な取り口で、上位に進むまで時間を要したが潔いと評され、大物食いとしても知られた。現に最盛期とされる1927年から1928年にかけて、宮城山福松を2度敗っている。 引退直前の1930年8月には、在米日本青年相撲部から招聘されてアメリカ合衆国へ渡って現地に半年滞在、日系2世に対して相撲指導を行いながらボクシング・レスリング・野球などを視察した。1931年に再び渡米したのち現役を引退し、断髪式もロサンゼルスで行ったのち、年寄・竹縄を襲名した。 帰国後は、出羽海部屋付きの年寄として後進の指導に当たったほか、検査役として公平な意見を述べて信頼を集め、日本相撲協会の理事まで務めた。1958年11月5日に死去。。文筆にも秀でており、没する直前まで日記を書き続けていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「常陸嶽理市」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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